梅の木通信
心の話【S先生の日記】


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41 いじめっ子


最近いじめの問題が大きな社会問題となっております。
いじめる側いじめられる側とそれぞれ言い分はあると思います。

おみち流に考えますと、因縁事情ということになるのでしょうか、
正にその通りであり、前生の通り返しの道とも解かれる通りであります。

しかし、それだけで済む問題ではありませんので、もう少し深く
掘り下げてみたいと思います。


因縁事情から見ると、前生の弱いものいじめをした人が、
今生いじめられる結果となるのであり、今生いじめられている人の前生は
弱いものをいじめてきた、双方共その通り返しの道なのであります。

いじめる側の家庭事情もそれぞれの階級にあり、また母子家庭、父子家庭、
夫婦共稼ぎにより、鍵っ子等と、その生い立ち環境は様々だと思います。

神の目から見て共通して言えることは、どんな環境下にあっても、
どんな家庭に育っても子供に責任があるわけではなく、その子供の両親の
心の貧しさから引き起こしている問題なのであります。

なぜなら神は子供15才までは親の心通りの守護と聞かすと仰せられている
からであり、15才を過ぎるとその子供の心通りの因縁事情が芽生えてく
るからであります。

仰を持たない親は自分の心の貧しさが原因であることはわからず
ただ子供を罵ったり叱ったりするだけです。
家の中では品行方正の子供が学校でいじめをする親達は何も知らず子供の成績が良い、
また性格が良い等と安心しまさか自分の子供がいじめの張本人などとは霧しらず、
例え知ったとしても信じられないのが現状だと思います。

我が子に限ってそんなはずがない、とうとう口癖のように、どこの家庭でも
両親は言うのでわないでしょうか。

れは一面思考つまり自分の目の前に現れてくる現象にのみを信じる
習慣が身についてしまっているからであります。
ですから学校や帰り道でのいじめについて自分自身が目撃していない陰の部分
だから信じられない、自分の目の前での子供は成績も良く品行方正、性格良し、
ですからまさか?うちの子に限って絶対にそんなことはありません。
と口を揃えて言うのだと思います。

では、どうしていじめの問題が起こるのか、色々なケースがあると思いますが、
神の目から見たら夫婦と子供の絆が細いのであります。

親の「が」の強さを親自身が気付かず、自分中心に考えその考えを子供や妻に強要する
その心遣いの反動がいじめの原因になっているのでありますから、
親が自分自身の心を反省がなければ解決できる問題ではないのであります。

積み木崩しの本がよく売れたそうですが、これもやはり夫婦の絆が細く夫婦の心が
一つ子育てというところで、意思が合わずどちらかの「が」の心遣いの強要に
よるものの結果だと思います。

 42 負けるが勝
 
世の中に負けるが、勝ちという言葉があります。

人間どんな勝負にもまた競争にも負けたくない勝負に勝ちたい、
これが人情ではないでしょうか、例えば高校野球の決勝戦で負けて準優勝となった。
精一杯やった悔いはない、高校時代の良き思い出になります。
等とインタビューに答える。本音か建前か分かりませんが一面の真理ではありますが、
心のどこかに何らかの思いが残らないでしょうか。

また議論に負けて、負けるが勝ちとは言い難いようです。


どうして負けるが、勝ちなのか考えてみたいと思います。

人間の心の中には良い心と悪い心の二面があります。
俺が我がの「が」の心の強い人には道理がなかなか分かりません。


無理が通れば道理が引っ込むという諺がありますように、相手の無理を道理を
分かっている人が治めて通る、これが負けるが勝ちということであります。

人が人を裁くことはないのであります。人が人を裁かねば天が裁きをするのであります。
人が人を人が裁こうとしたら心の高さが同じになってしまいます。
道理のわかった人が自分の心を治めて通る、これが負けるが勝ちという事であります。

一般的に負けるが勝ちと言うと、負け犬の遠吠えみたいに聞こえることが多いようです、
相手に負けて、自分自身の心の高ぶりがなかなか治まらず、負けるが勝ちと、
自分自身の心に言い聞かせる、これでは負けるが勝ちとは言えません。

無理を承知で、わかったものが治めて、通る相手の方に不足せずに、相手を気の毒な方と
心から思いやる心であれば負けるが勝ちとなります。

言っていることと、やっていることの矛盾に、気をつけて通りたいものです

 43 感謝

ありがとうございます。この言葉は感謝の心を表す言葉です。

神は理なり、理は神なり、
と申しますように、神は思いあり道理が神の心であります。

神は思いですから、影も形も
ありません。

人間の心も神と同じ思いですから形がありません。人間が親神に対し感謝の
心を持つ、
その心は、即親神に通じるのであります。人間は神の思いにより肉体を有しま
す。

その人間に神は言葉を許されたのであります。その言葉の中にありがとうございます
という
感謝の言葉があるのです。神は人間の陽気ぐらしを見たい、させたいの思いにより

人間を創造されたのであります。
そうして総てのものを用意して、人間の幸福のみを考え
、今日まで育成して下されて
いるのであります。
ですから、人間は何をするのにも神に対
し、感謝以外にはないのでありますが、
神が人間を創造するにあたり、心一つ自由に使える
ように許されたのです。

その心の使い方の自由の理を人間ははき違えて親の思いに適わぬ
勝手な心遣いをするように
成ってしまったのであります。
その為に心を汚してしまい、神
に対して懺悔をしなければならないのであります。

食べるもの、着るもの、住むところ総
て神によって素材が用意され、その素材を人間の
知恵によって使わせていただくのであり
ますから、感謝の心を言葉を持って、
ありがとうございますと精神、言語、動作の三行を
持って感謝するのであります。

人間同士に於いても感謝の言葉は相手の心を和らげる大切
な心を表わす言葉であります。
親子、夫婦、友人、知人、たとえ他人であって労力等で真
心をいただいたときは、
必ず感謝の心ありがとうございますとお礼を言いましょう。

感謝
の心は天に通ずる心です。
 44 家族
 
一家の中心は親が基本です。親があって子供があるのです。

おさしずの中に、「親がありて子や、子がなんぼ賢うても親を立てるのが理や」
とおさとし下されてあります。

子供がどんなに賢くて立派に出世しても、親という元があったからであり、
ですから子供が親を立てる心を忘れてはいかんと仰せられてありますように
一家の中心は親であります。

その親も元は親から生まれたのであります。
ですから親はその親を立てることを忘れてはいけないのであります。

親が親を立てる心を忘れたら、子が親を立ててくれません。
親不孝な子を持つ親は、自分が親不孝であったことを忘れてはいけません。

親に孝は天に孝であります。
人間の先祖は岐美二尊です。ですから親に孝は天に孝であります。
従って親になっても道理がわからねば理違いをしてしまいます。
(
理違いとは親神の心と人間の心の違いを理違いと言います)
ですから、信仰が必要になってくるのであります。

親孝行したい時に親はなしと言う諺がありますが(親孝行とは親の心を喜ばせる心)
両親の親が亡くなってしまった人は先祖を立てて通ることが大切であります。
先祖のしもりは親の役目であります。


親神の思いは一家の基本は夫婦であり、夫婦に子供ができて、
一家という家族が出来ていく、これが神の思いであります。

親神を言葉に内々治めての世の手本」という言葉通り、
夫婦は親孝行と互に扶け合いで一つの心になって暮らすことが大切なのです。
家々が治まれば世の手本となるのです。

そのためには一家が一つ心になって日々暮らすことです。
ですから道理に合せ、家族の心を一つにして話し合ってください。
 ありがとうございます                      昭和61年1月2日
 45 元旦
 
一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にありと申します。
年の初めの日を元旦というのですが、なぜ元旦というかと申しますと、
元旦とは、も元一日という親神の思いも元一日という。
入信も元一日、甘露水も元一日というように、全ての物事の始まりの日を
元一日というのであります。

私達が今日こうして生かされていただいておりますのも、元一日
つまり出生の日があったからであります。
元忘れたら、心泥海と親神は申されてあります。世上の諺の中にも
のどもと過ぎれば熱さを忘れるというのも同じことであります。

どんなことでもどんな時でも、今日あるということは、元一日という日が
あったからの今日の日なのです。
人間は元一日をすぐに忘れてしまいます。世上の中で元一日を祝う習慣が
残っているものに、誕生日、結婚記念、命日位が多いように思います。

誕生日等はどこの家族でも家族の人の誕生を祝う習慣がよく残っていると思います。
結婚記念日等は年数が経つに従ってだんだん忘れかけてしまい、
新婚当時の感激などは忘れてしまっている人はが多いのではないでしょうか。

しかし年数が経てば金婚式、銀婚式というように長い年月を経て感謝の心が
少しわかってくるようです。
お互いに今日まで健康で来られて良かったと共に感謝をし合う、
それもこれも皆元一日があればこその今日なのです。信仰も元一日、
入信当時の心を忘れずに日々日々を親神と感謝して通らせて頂くことが、
最も大切な事なのであります。

親神の思いが真に治まれば人間は神に対し感謝と懺悔の心しかないと思います。

 46 病気
 
神の世界に病気はありません。人間の世界にのみ存在するのであります。
親神は、病と言うて既になし、心得違いの道が見えるでとをお知らせ下さって
あります様に、神の思いに適う人間には、病は本来ないのであり、
人間の思い違いが病の元となるのであると、お知らせ下さっているのであります。

病気とは気の病と書く通り、気は心ですから心違いという思い違いが病の元を作って
いるのであります。例えば消化器系に癌等できるのは男の方が多い様です。

なぜ男に多いのかと申しますと、この消化器関係は雲読之命の理により、
飲み食い出入のご守護でありますから、食べたり飲んだり出し入れに関し感謝の
心がなければなりません。
しかし男の人は料理を食べる事は知っていても、料理を作る人の苦労がわからない。
喉を通る迄の僅かな間に美味しくない、不味い、硬い、軟らかすぎる、酸っぱい、
甘い、辛すぎる等と言葉に出したり又思ったりする、その不足の心が消化器系の
の元となってしまうのであります。

親神は人間が陽気ぐらしをする為に、九つの胴と九つの道具を貸し与えて
下されたのにあり、その九つの胴と道具に親神の思いが伏せ込んであるのであります。
人間はその思いが分からず、まして自分は自分の力で生きていると錯覚しているのです。

その為に思い違いをする。その思い違いが積もり重なって病を作ってしまうのであります。

親神は身上、事情は道の花とお知らせ下さってあります様に、子供が可愛い一条にて
知らして下さるのでありますから、身上を通して自分の心へ違いを懺悔して、
その心遣いを捨てる様つとめることが大切であります。

 47 足納(たんのう)
 
神心に近づくには、足納の心第一とお知せ頂いております。
神心とは水心であり、どんな時でもどんな人にも不足せず合せて通る心が
水心であります。

その心を養い育てるためには、足納の心を養い育てねばなりません。
人間世界で水心になり切ると言う事は不可能に近いと思います。
そこで足納の心が大切なのであります。
足納とは不足心がないのが、足納の心でありますから、自分自身の因縁の自覚と、
見る聞く因縁我にありのお言葉が身につかぬ限り、足納の心を養い育てる事はできません。

そこで足納の心を育てるには、先ず人間の社会ですから、我慢、忍耐、辛抱等に
努力していかなければなりません。これらは人間として最も大切なことであります。

人間はどうしても自己中心的に物事を考えがちです。その自己主張ばかりですと、
我がの「がの心」が強くなってしまいます。
その我がの「が」を押さえて通ることが我慢であり、忍耐、辛抱ということに
なるのであります。

納の心とは信仰を持たない限りなかなか分かり得ぬ心であります。
信仰を持って初めて、因縁の理合が分かり、その分かったことを努力して身につけて
初めて足納の心が養われていくのでありますから、信仰なくして因縁の理合がわかろう筈は
ないのです。従って足納の境地は分からない筈であります。

足納の心とは自分の因縁(くせ性分)と見ること、聞くことによって自分の心を汚さず
又相手の心も汚さぬ様、そして不足せずに通る心が足納の心だと思います。

 48 男の働き、女の働き
 
男は月々の働きをし、女は日々の働きをする。これは月日親神の思いに依り
人間にはわか
らず共、自然に出来ているのであります。従って男は月々の働き
つまり月給を取る、女は
家庭を守る働きをする。
これが神の人間男、女の思いであります。

ところが最近の夫婦の
パートの多いこと、専業主婦の少ないのには驚くばかりです。
その反面心が貧しく成って来
ているのは事実だと思います。
神の思いからすれば男が外で働き妻が家を守るこれが本来
の姿であり、神の思いであります。

つまり夫婦は男の働きで一家の家計が成り立つ様に出
来ているのであります。
ところが、人間は心が貧しく上ばっかり見て暮らすものですから
、どうしても隣近所の
家庭を見る、比較する、不足する、共稼ぎとなるケースは色々ある
と思いますが、
いずれにしても神の思いのわからぬ心の貧しい人といわねばなりません。

お金は確かに奥さんの働き分だけで増えてきますから生活は楽になるかもしれませんが、
決して身につかないと思います。

何故なら神の思いに適わぬからであります。どんなに金
、銀、財産に恵まれても
心が貧しかったら幸福感はないのであります。
男の収入に不足す
るより、家の中をしっかり守り、夫に不足や心配をかけず、
夫を立てて通る心を養った方
が身につくのであります。

人間は人に厳しく自分に寛大であるから問題が多いのです。神
の思いは自分に厳しく
人に寛大、これが神の思いです。自分の心の貧しさを外に向けてし
まい、
自分は主婦としてやる丈のことをこなしているのであり、自分には落度、欠点はな
く、
これで良いのであると潜在的に思っていたらもう進歩はありません。

人間は常に向上
心を持たなければいけないのであります。
神も今日より明日、明日より明後日と言う様に
常に、うまずたゆまず成製の行を
繰り返し繰り返し行って行くのが神であります。人間の
身体も前へ前へ進むように
出来ているのも、この神の思いに依るものだからであります。


例えば階段を後ろ向きに昇り下りしてみると良く分かると思います。
前向きに昇り下りす
る半分のスピードもない筈であります。
人間には見えずとも神の思いは理詰めの世界と言
われる通り、ちゃんとその様に
出来ているのであります。

財の貧乏より貧乏の心の貧乏の
方が立ち直りが難しいのであります。
夫の収入に不足をするより、妻として家を守り、夫
を立てて通る事の方が
理に適うのであります。

また夫の方も自分の働きを鼻にかけず、妻
をいたわる心を養うことが
大切なのであります。人という字が示すように共に扶け合う、
立て合う心を養う事が
家庭円満の秘訣だと思います。


 49 へそくり
 
へそくりというと、山内一豊の奥様のことを思い出す人が多いと思います。
良き妻の見本代名詞みたいに良く言われています。
しかし、へそくりが正しいかどうか色々考えてみたいと思います。
もちろん神の世界にへそくり等ありません。人間の社会にのみ存在するのであり
一般的には奥様が有事に備えて日頃から家計をやりくりして貯めておく
お金のことであります。

そのへそくりの考え方が正しいかどうか考えてみると一見正しいように聞こえますが、
厳密に理に照らしたら、やはり適いません。人間一寸先が闇というように人間の先に
はどんな事が出てくるかわからない、備えあれば憂いなしの諺通り、その為にへそくりを
しておくことが、へそくりであります。本来人間は神の思いによって生かされて頂いて
いるのであるから、神の思い通り生きていかれれば、へそくりの必要はないのであります。

しかし、人間は神の思い通りに生きられない、余りにも心を汚し過ぎ、神の思いを

映すことができなくなっているからであります。
そこで理が分からずとも人間の知恵に依って便法が生まれて来たのだと思います。
便法はあくまでも便法(便法上の手段)であって本来のものではありません。

人間の世界には便法が沢山あって本質を見失う様なことでは本末転倒になってしまいます。
へそくりにしても例えば主人が病気になったらあるいは家族の者が病気をした時に困るから
実際にへそくりのおかげで良かったと思うことはあると思いますが、本来の神の思いに
適わない先案じか慾か、いずれにしても理に適わないのであります。


 50 松、竹、梅
 
おめでたい席の代表みたいに言われる、この松竹梅について天理教祖は一家の家庭につい
諭されておりますので、記憶が確かではないかもしれませんが下記します。

松は男()理を表し、大地に根を張り格好良くりりしい姿を表したもの。
竹は女()の理を表し、その柔軟性を言われたものと思います。
一般的にはカラッとした性格の表現に竹を割ったような性格というように言われますが、
教祖が竹を女に例えられたのは、竹は大地に根を張り、地震等にも竹薮に逃げ込めと
言われる位ですから、しっかり家を守るとのさとしと、又大風にも大雪にもじっと
耐えて通る姿は女の理と諭されたのであります。

梅は子供の理と例えられて居ります。梅は厳寒にも負けずに春一番に花をつける、
この理は子供が元気よくの理合いであり、又梅の実は何百年も保存がききその味が変わる
ことがない先の楽しみの理をさとされたものと思います。

一家の家庭もそれぞれの任務役割を果たし共に扶け合いの心は、先々の繁盛間違いなし、
目出たし、目出たしの理かと思います。夫は天に向かって一筋に立つ理、
妻は大地にしっかり根を張り家庭を守る、どんな波風にも心濁さず通る理、
この心さえ治まってあれば家庭円満、互いに立て合い、助け合いの心を養い、
育てる事も大切です。

この理を教理は松竹梅になぞられてお話し下さったのだと思います。

 
 
 
 
 
 
 
続き 51〜60


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