梅の木通信
心の話【S先生の日記】
41 いじめっ子 |
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42 負けるが勝 |
世の中に負けるが、勝ちという言葉があります。 人間どんな勝負にもまた競争にも負けた これが人情ではないでしょうか、例えば高校野球の決勝戦で負けて準優勝となった。 精一杯やった悔いはない、高校時代の良き思い出になります。 等とイ 心のどこ また議論に負けて、負けるが勝ちとは言い難いようです。 どうして負けるが、勝ちなのか考えてみたいと思います。 人間の心の中には良い心と悪い心の二面があります。 俺が我がの「が」の心の強い人には道理がなかなか分かりません。 無理が通れば道理が引っ込むという諺がありますように、相手の無理を道理を 分かってい 人が人を裁くことはない 人が人を人が裁こうとし 道理のわかった人が自分の心を治めて通る、これが負けるが勝ちという事であります。 一般的に負けるが勝ちと言うと、負け犬の遠吠えみたいに聞こえることが多いようです、 相手に負けて、自分自身の心の高ぶりがなかなか治まらず、負けるが勝ちと、 自分自身の心に言い聞かせる、これでは負けるが勝ちとは言 無理を承知で、わかったものが治めて、通る相手の方に不足せずに、相手を気の毒な方と 心から思いやる心であれば負けるが勝ちとなります。 言っていることと、やっているこ |
43 感謝 |
ありがとうございます。この言葉は感謝の心を表す言葉です。 神は理なり、理は神なり、 神は思いですから、影も形も 人間の心も神と同じ思いですから形がありません。人間が親神に対し感謝の心を持つ、 その心は、即親神に通じるのであります。人間は神の思いにより肉体を有します。 その人間に神は言葉を許されたのであります。その言葉の中にありがとうございます 感謝の言葉があるのです。神は人間の陽気ぐらしを見たい、させたいの思いにより 人間を創造されたのであります。 そうして総てのものを用意して、人間の幸福のみを考え いるのであります。 ですから、人間は何をするのにも神に対 神が人間を創造するにあたり、心一つ自由に使えるように許されたのです。 その心の使い方の自由の理を人間ははき違えて親の思いに適わぬ勝手な心遣いをするように 成ってしまったのであります。 その為に心を汚してしまい、神 食べるもの、着るもの、住むところ総 知恵によって使わせていただくのでありますから、感謝の心を言葉を持って、 ありがとうございますと精神、言語、動作の三行を 人間同士に於いても感謝の言葉は相手の心を和らげる大切な心を表わす言葉であります。 親子、夫婦、友人、知人、たとえ他人であって労力等で真心をいただいたときは、 必ず感謝の心ありがとうございますとお礼を言いましょう。 感謝 |
44 家族 |
一家の中心は親が基本です。親があって子供があるのです。 おさしずの中に、「親がありて子 とおさとし下されてあります。 子供がどん ですから子供が親を立てる 一家の中心は親であります。 その親も元 ですから親はその親を立てることを忘れてはいけないの 親が親を立てる心を忘れたら、子が親を立ててくれません。 親不孝な子を持つ 親に孝は天に孝であります。 人間の先祖は岐美二尊です。ですから親に孝は天に孝であります。 従って親になっても道理が (理違いとは親神の心と人間の心の違いを理違いと言 ですから、信仰が必要になってくるのであります。 親孝行したい時に親はなしと言 両親の親が亡くなってしまった人は先 先祖のしもりは親の役目であります。 親神の思いは一家の基本は夫婦であり、夫婦に子供ができて、 一家という家族が出来てい 親神を言葉に「内々治めての世の手本」という言葉 夫婦は親孝行と互に扶け合いで一つの心になって暮らすことが大切なのです。 家々 そのためには一家が一つ心になって日々暮らすことで ですから道理に合せ、家族の心を一つにして話し合ってください。 |
45 元旦 |
一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にありと申します。 年の初めの日を元旦というので 元旦とは、も元一日という親神の思いも元一日と 入信も元一日、甘露水も元一日というように、全ての物事の始まりの日を 元一日と 私達が今日こうして生かされていただいておりますのも、元一日 つま 元忘れたら、心泥海と親神は申されてあります。世上の諺の中にも のどもと過ぎれば熱さを忘れるというのも同じことであります。 どんなこ あったからの今日の日な 人間は元一日をすぐに忘れてしまいます。世上の中で元一日を祝う習慣が 残って 誕生日等はどこの家族で 結婚記念日等は年数が経つに 新婚当時の感激などは忘れてしまっている人はが多いの しかし年数が経てば金婚式、銀婚式というように長い年月を経て感 少しわかってくるようです。 お互いに今日まで健康で来られて良かったと共に感 それもこれも皆元一日があればこその今日なのです。信仰も元一日、 入信当 最も大切な事なのであ 親神の思いが真に治まれば人間は神に対し感謝と懺悔の心しかないと思います。 |
46 病気 |
神の世界に病気はありません。人間の世界にのみ存在するのであります。 親神は、病と言 あります様に、神の思いに 人間の思い違いが病の元となるのであると、お知 病気とは気の病と書く通り、気は心ですから心違いとい いるのであります。例えば消化器系に癌等できるのは男の方 なぜ男に多いのかと申しますと、この消化器関係は雲読之命の理により、 飲み食い出入のご守護でありますから、食べたり飲んだり出し入れに関し感謝の 心がなければなりません。 しかし男の人は料理を食べる事は知っていても、料理を作る人の苦労が 喉を通る迄の僅かな間に美味しくない、不味い、硬い、軟らかすぎる、酸っぱい、 甘い、辛すぎる等と言葉に出したり又思ったりする、その不足の心が消化器系の 病 親神は人間が陽気ぐらしをする為に、九つの胴と九つ 下されたのにあり、その九つの胴と道具に親神の思いが伏せ込んであ 人間はその思いが分からず、まして自分は自分の力で生きていると錯覚 その為に思い違いをする。その思い違いが積もり重なって病を作ってし 親神は身上、事情は道の花とお知らせ下さってあります様に、子供が 知らして下さるのでありますから、身上を通して自分の心へ違いを懺悔して、 その心遣いを捨てる様つとめることが大切であります。 |
47 足納(たんのう) |
神心に近づくには、足納の心第一とお知せ頂いております。 神心とは水心であり、どんな 水心であります。 その心を養い育てるために 人間世界で水心になり切ると言う事は不可能に そこで足納の心が大切なのであります。 足納とは不足心がないのが、足 見る聞く因縁我にありのお言葉が身につかぬ限り、足納の心を養い育てる事はできません。 そこで足納の心を育てるには、先ず 努力していかなければなりません。これらは人間として最も大切なことであります。 人間はどうしても自己中心的に物事を考えがちで 我がの「がの心」が強くなってしまいます。 その我がの なるのであります。 足 信仰を持って初めて、 初めて足納の心が養われていくのでありますから、信仰なくして因縁の理合がわかろう筈は ないのです。従って足納の境地は分からない筈であります。 足納の心とは自分の因縁(くせ性分)と見ること、聞く 又相手の心も汚さぬ様、そして不足せずに通る心が足納の |
48 男の働き、女の働き |
男は月々の働きをし、女は日々の働きをする。これは月日親神の思いに依り 人間にはわか つまり月給を取る、女は これが神の人間男、女の思いであります。 ところが最近の夫婦の その反面心が貧しく成って来 神の思いからすれば男が外で働き妻が家を守るこれが本来 つまり夫婦は男の働きで一家の家計が成り立つ様に出 ところが、人間は心が貧しく上ばっかり見て暮らすものですから 家庭を見る、比較する、不足する、共稼ぎとなるケースは色々あると思いますが、 いずれにしても神の思いのわからぬ心の貧しい人といわねばなりません。 お金は確かに奥さんの働き分だけで増えてきますから生活は楽になるかもしれませんが、 決して身につかないと思います。 何故なら神の思いに適わぬからであります。どんなに金 心が貧しかったら幸福感はないのであります。 男の収入に不足す 夫を立てて通る心を養った方 人間は人に厳しく自分に寛大であるから問題が多いのです。神 人に寛大、これが神の思いです。自分の心の貧しさを外に向けてし 自分は主婦としてやる丈のことをこなしているのであり、自分には落度、欠点はな これで良いのであると潜在的に思っていたらもう進歩はありません。 人間は常に向上 神も今日より明日、明日より明後日と言う様に 繰り返し繰り返し行って行くのが神であります。人間の 出来ているのも、この神の思いに依るものだからであります。 例えば階段を後ろ向きに昇り下りしてみると良く分かると思います。 前向きに昇り下りす 人間には見えずとも神の思いは理詰めの世界と言 出来ているのであります。 財の貧乏より貧乏の心の貧乏の 夫の収入に不足をするより、妻として家を守り、夫 理に適うのであります。 また夫の方も自分の働きを鼻にかけず、妻をいたわる心を養うことが 大切なのであります。人という字が示すように共に扶け合う、立て合う心を養う事が 家庭円満の秘訣だと思います。 |
49 へそくり |
へそくりというと、山内一豊の奥様のことを思い出す人が多いと思います。 良き妻の見本 しかし、へそくりが正しいかどうか色々考えてみたいと思います。 もちろん神の世界にへそくり等ありません。人間の社会にのみ存在するのであり 一般的には奥様が有事に備えて日頃から家計をやりくりして貯めておく お金のことであります。 そのへそくりの考え方が正しいかどうか考えてみると一見正しいように聞こえますが、 厳密に理に照らしたら、やはり適いません。人間一寸先が闇というように人間 はどんな事が出てくるかわからない、備えあれば憂いなしの諺通り、その為にへそ しておくことが、へそくりであります。本来人間は神の思いによって生かされて頂 いるのであるから、神の思い通り生きていかれれば、へそくりの必要はないのであります。 しかし、人間は神の思い通りに生きられない、余りにも心を汚し過ぎ、神の思いを 映すことができなくなっているからであります。 そこで理が分からずとも人間の知恵に依 便法はあくまでも便法(便法上の手段)であって本来のものではありません。 人間の世界には便法が沢山あって本質を見失う様なことでは へそくりにしても例えば主人が病気になったらあるいは家族の者が病気をした時に困るから 実際にへそくりのおかげで良かったと思うことはあると思いますが、本来の神の思いに 適わない先案じか慾か、いずれにしても理に適わないので |
50 松、竹、梅 |
おめでたい席の代表みたいに言われる、この松竹梅について天理教祖は一家の家庭につい 諭されておりますので、記憶が確かではないかもしれませんが下記します。 松は男(夫)の 竹は女(妻)の理を表し、そ 一般的にはカラッとした性格の表現に竹を割ったような性格というように言われますが、 教祖が竹を女に例えられたのは、竹は大地に根を張り、地震等にも竹薮に逃げ込めと 言われる位ですから、しっかり家を守るとのさとしと、又大風にも大雪にもじっと 耐えて通る姿は女の理と諭されたのであります。 梅は子供の理と例え この理は子供が元気よくの ことがない先の楽しみの理をさとされたものと思います。 一家の家庭もそれぞれの任務役割を果たし共に扶け合いの心は、先々の繁盛間違いなし、 目出たし、目出たしの理かと思います。夫は天に向かって一筋に立つ理、 妻は大地にしっかり根を張り家庭を守る、どんな波風にも心濁さず通る理、 この心さえ治まってあれば家庭円満、互いに立て合い、助け合いの心を養い、 育てる事 この理を教理は松竹梅になぞられてお話し下さったのだと思います。 |
続き 51〜60 |