梅の木通信
心の話【S先生の日記】


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51 理について


神は理なり理は神なり、この言葉は天理教祖と僧侶の問答の時に
親神が仰言られた言葉であります。
おみちの中でもよく理という言葉を耳に致しますなんとなく便利に
使っておりますが、本当の意味はどうなのか正しい理解のもとに
使われているのでしょうか?

理とは王の里と書いてあります様に、王神の心が神であり、
神は思いであります。道理とは神の思いの道のことであります。

例えば、
理違いとは神の思いと人間の思いの違いのことであり

理を潰すとは人間の神に対する思い違いや行いのこと

理解とは一つの道理が分かる。心が知るということ

屁理屈とは邪道、邪道は正しくないよこしまな道

理屈とは、人間心で無理を通すこと

理立てとは感謝の心を表す言葉や行いの事

理不尽、神の思いに適わぬ心使いや行いの事

無理、神の思いがない、神の思いに適わない心や行いの事

理論、神の思いを話し合う、一つの真理を二面から論ずること

理想、真理を求める心

と言う様に理と言う言葉は大変便利に使われて居ります。
おさしずの中に、人間は勝手に理をこしらえるからどうにもならん
と仰せられてあります通り、二つ一つが天の理、自然が神とのさと
し通り調和に依って、この世は保たれ運営されているのであります。

この世は理詰めの世界とさとされている通り、
真理を求めるのが信仰者です。

宗教家にならず、宗教家を目指して頑張りたいと思います。


 52 感情の鬼
 
感情の鬼という言葉があります。

先ずこの感情とは何かと申しますと、平常心に対し、
見る事、聞く事などに依って、平常心に波風がたつ、
この波風が感情であると思います。

人間は五感に依って物を知り、又五感に依っても心が
高ぶるのであります。
従ってこの感情の鬼の心の元は、人間心であり八埃の心の強いのを
言うのであります。

特に「が」の心と慾望が満たされない時ほど感情の鬼と
なるようであります。
感情の鬼になってしまいますと、理非の判断がつかなくなって
しまいます。
従って、すべてのものが切れてしまうのであります。

例えば夫婦喧嘩の中で感情の鬼となってしまいますと、
暴力は勿論の事、言葉に依っても相手の心を深く傷つけてしまいます。
そのために仲直りをした後でも、心の傷の深さに依って、回復するのに
時間が沢山必要になって来るのであります。

感情の波が高くなれば高くなる程、理非の判断がつかなくなり
悪因縁のなすが侭となってしまうのであります。

口論から人殺しをしてしまったとすると、その心の元である
「が」の心、「慾」の心、かのいずれかの感情の頂点に立った時なのです。

ですから、殺害してしまった時計画的ではない限り、
しばし呆然としてしまうのではないでしょうか、
心が静ってくるに、従って、その人の良心が働き、事の重大性に気づき、
回顧の情が湧いてきて、悪夢から覚めた様になるのだと思います。

ですから感情の鬼から覚めたら、結果的に全てのものが切れてしまった
後なのです。

道を通る人は感情が高ぶって来たなら
目を瞑って胸済ましを心の中で唱えましょう。心が楽になるはずです。


 53 親苦労する、子楽をする、孫乞食する
 
悪盛んにして天に勝、天定まって人に勝つと、
親神様は教えて下さって居ります。

人間勢いの良い時は、悪い時でも勢いに任せて通ってしまいますが、
気力体力が劣ってくると、そのままでは通れなくなってしまいます。

人間は50年か60年の間に自分さえ、又家族さえという様に、無理をして
人より幸せになりたい、人より良い家に住みたい、人より良い着物を着たい、
人より良い物を身につけたいの慾の心で無理をする、

子供には親の苦労をさせたくない、自分よりも学校も良い所に出してやりたい、
良い会社に就職させたい、幸せになってもらいたいと思う、
子を持つ親なら誰でもそのように思うのは人情と思います。

しかし人間はこんな綺麗事では済ませられません。
もっとドロドロしたものもあり、慾の心もその通り、
たてまえ以上の心が強くなり、泥沼の様な心になってしまいのであります。

たてまえで、我子のためと悪い心を良い心の様に我心を偽り正当化して、
慾に走るのであります。

ですから、親の苦労を子供にさせたくないから、子供に楽をさせる、
子供は親の苦労が分からないから親がなくなったら、その財産を売り喰いして
通ってしまう。
その子供になったら親の姿を見ているものだから、働くことも知らない、
勿論苦労もないから道理もわからない。

三代目には乞食をする様になってしまうのであります。
ですから親苦労する、子供楽をする、孫乞食するとなってしまうのだと思います。

大切なことは、親は子に道理を教えていく事であり、
それを体得させて行く事だと思います。

身体を通して心が知った物は本物です。

見たり聞いたりしただけでは、その時は知っていても時が経てば忘れてしまいます。
こうならない様に心を低く通りたいものです。


 54 先案じの心


親神様は先案じの心を戒めておられますが、何故先案じの心が
いけないのかと言う事を考えてみたいと思います。

まず人間の社会に計画又は予定等という言葉もあります。
計画と先案じとどう違うのかと申しますと、計画とは一つの目的に
向かって一つ一つ実行し支障があればその対策をこうじ、計画を目的に
向かって実践推進していくことであります。

では、先案じとはどういうことか、
実行が伴わず、先々の心配ばかりすることが、先案じの心なのであります。

実行の伴わない先々の心配は、何の益にもならず、
心を汚すばかりだからであります。

おさしずの中に
「案じる理は案ずる理をこしらえ、案じるように理をこしらえ、気がいずむ」
とお諭し下されてあります。

先々の心配をする、心配すれば心配する程、更に心配しなければならない。
心配すると種は尽きることなくあるものである。

心配ばかりしていたら、病になってしまうと教えて下さっているのであります。
ですから先案じはいけないと諭されているのであります。

例えば商売をしていて、今月売上が悪い、生活費はどうなるかのかと
先ず先案じをする。
来月また悪かったら、その次の月悪かったら家族が病気をしたら等と
一寸先のわからぬ人間が、先々の先まで心配してどうにもなるものではありません。

それよりも大切な事は、神によって生かさせて頂いている感謝の心と、
今日一日を一生懸命働かせて頂く事が大切なのであります。
取越苦労と先案じの心は、心を汚してしまうだけで、何の解決にもなりません。

どんなことでも一つの実行が身につくのであります。
心配事が出来たら先ず感謝の心と、元一日入信の頃を思い出して、
身近な出来ることから一つ一つ実行しましょう。先案じは病の元です。

 
 55 八埃について
 
親神は人間心について、八つの埃心であるとお知らせ
下さって居ります。
埃は払えばすぐに落ちるものです。
家の中に埃もハタキで払うとすぐに落ちます。これが埃であります。

神が戒めておられる八つの埃と申しますのは、心で思う事が理違いで
あったらその思い(心使い)は埃心であります。

例えば宝石を見て、欲しいなーと思うこれは一般的には埃心なのであります。
又妻があるのに美人を見て何とかしようと思う心も埃心であります。
この様な心が積り重なって因縁病となってしまうのであります。
こんな心を使ったらすぐに胸の神にお詫びすることが大切であり、
二度とその心を使わない様努力することが大切なのであります。

扨八埃とは、欲しい、惜しい、可愛い、憎い、恨み、腹立ち、慾と高慢と
教えて下さって居ります。
しかしその心をもっと深く見つめて見ますと、俺が我がの「が」の心使いが
元であると思います。

人間である以上、この「が」の心のない人は一人もありません。
この「が」の心がすべての病の元となるのであります。

この「が」の心ほどしぶといものはありません。
人と人との会話の中でも、すぐと自分を中心にして相手の言う事や行いを
見て、自分の尺度で相手の人を測ってしまいます。
その測り方が、なるほど、なるほど、と合わせる心なら良いのですが、
人間なかなか素直になれるものではありません。

人間はそれ程、業読めないから確認が深いのです。
この「が」を取る為に、先人も道の人も皆苦労しているのであります。
心が開けて真剣に生きても人間はすぐと心を忘れ、情性に流されてしまいます。
この繰り返しで一生終わってしまう様な気がします。

 56 文字について
 
文字を憶えるのは頭です。その文字の本当の意味を悟るのは心です。

親神は人間に文字の理をお許しになられたのは、言葉と同じ心と心を
つなぐ道具としてお許しになられたのです。

文字は人間の心、つまり思いを表現したり、又、読む人の心を楽しませたり、
真実を伝える為に許されたのだと思います。

これが文字に対する親神の思いかと思います。
文章を書く人は、真実を或いは自分の心を伝えようと一生懸命筆を取り
文字に託して表すのですが、読む方の人は文字に表れた字面だけを読み
作者の意とするところを、汲み取ることがなかなか難しいのです。
それは心が開かず、頭で憶えようとするからだと思います。

必要だから憶えようとするのですが、頭で憶えることは
文字をコピーしたのと同じです。
コピーなら後に残りますが、頭にコピーしたことは、
時が経つに従って忘れてしまいます。

文字を頭でコピーした事を、忘れないうちに体験出来ると、
心が開けると思いますが、なかなか出来ません。

心でその文面の良し悪しを判断し、その事を胸に命令するのだと思いますが、
心が何時までも憶えない限り、頭のコピーも忘れ、心も忘れてしまいます。
すべて終わりです。

心のどこかに何かしらの物事を知っている、或いは体験しているからこそ
頭のコピーを忘れても、心が憶えているから気になるのだと思います。

物事を覚えるのは身体を通して心が理を解するのであります。
記憶するのは頭と心ですが、頭の何分の一かが心にとどまるのです。
それは真理だからであります。
真理は元の理であり、道理であります。
しかし、文字を憶える本当の意味がわからない限り、忘れてしまいます。


ありがとうございます。

昭和61年1月8日
 57 知らずに恨みをかう。知っていながら恨みをかうこと
 
人間は知らず知らずに恨みをかうこともあります。
理非の判断もなく無意識の内に恨みを受けることです。

例えば5人掛けの椅子にゆったりと4人で座っていた場合、
混雑してくると、中にはこの人達はなんて非常識なんだろう、
こんなに混んでいるのに、誰か1人位席を詰める位の気働きの
できる人はいないのだろうかと思う。
その人の思いは4人の座っている人達の心に恨み心となって
ついてしまうのであります。

道を通る人達は、こんな時
「見る聞く因縁我にあり、我に無き理は映り来ぬ」
との、御神言を思い出だし相手を恨むことはないと思います。

しかし世の中の人々全部信仰を持っているとは限りません。
大切な事は相手の人達の姿を見て、自分がその様な同じ立場に立った時、
周囲の人々に恨みの心を抱かせないように努めることが大切なのです。

不足に思う心を因縁の理合いを悟って、その理で補う事によって
足納(たんのう)の心が出来ていくのであります。

事の理非を知っていながら、そのものを実行しますと、
もっと悪い結果になります。

例えば窓口で切符を買う時の割り込み、又乗車する時の割り込み等、
悪いと本人が知っていながら、その事を実行してしまいますと、
自分自身で心を傷つけてしまいます。

どんな人間でも信仰を持とうが持つまいが、神の子供である限り良心が
あるからです。
その良心に目には見えずとも傷がついてしまう事が、分からないだけなのです。

更に割り込みの場合は、相手の人からも恨まれてしまうから
二重の罪となる訳であります。
こんな事のないよう注意して道を通りたいものです。


 58 二つ一つが天の理
 
この世の中は神の思いに依って出来ているのであります。
二つ一つが天の理と教えて頂いておりますように、その調和で
成立っているのであります。

陰と陽、十と一、男と女、裏と表、天と地、太陽と月、火と水、右と左、
上と下と言う様に、総て神の思いと言う調和で成り立っているのであります。

人間に於いても相反するものの調和で、子供が生まれて来るのであります。
男の精子と女の卵子の結合により、一つの血の固まりから
だんだんと人間が作られていくのであります。

男の精子も生命力があり、卵子にも生命力があり、その二つの生命力の
結合に依って、人間としての生命力が生まれて来るのであります。

人間の魂という生命力も、こうして神の思いと人間個々の因縁とに依って、
子供が授かって来るのであります。
また一枚の紙にも裏と表があり、紙として使う事が出来るのです。

一つの真理にも二つの理があるのです。
例えば助ける人があれば助かる理がなければならんと、
おさしずの中にお教え下さってあります様に、助ける人の真心と、
助けて頂こうと言う真実の心が一つになって、御守護がいただけるのであります。

又、立てる理があれば、立てられる理もなくばならん、と教えて頂いております様、
立てる心と立てられる心の調和に依って、自然が神と言う事になるのです。

理と現場も二つ一つの理であり、二つが一つに治まって身に付いてこそ
神の用木となって来るのであります。

理論も表の理と裏の理の談じ合いであり、その調和が神の思いであります。

 

59 心のふしん


普請にも現場の普請と、心の普請という事があります。
一般的には普請という言葉は、家を建てたり直したりする現場のことを
言う事が多い様ですが、おみちの中では心の普請という事も言います。

心の普請とは、心を立て替えたり、直したりすることでありますが、
親神は先ずおさしずの中に三才心になりて来いと仰せられて居ります。

これは知能、知識のことを言うのではなく、邪心のない素直な心、
慾の心もなく案じ心もなく、無心に陽気に遊ぶ心の様になりなさいと
教えて下さるのであって、大人が子供になると言うのではありません。

おみちで言う心の普請とは、神の思いを知り、その思いを実践して
身に付けることであり、神の心に近づく為に、今迄の人間心から神の思いに
適う心に心をたてかえることであります。

神の思いに適う心とは、自分の「が」を捨て、人を救ける心、人に合せる心、
人の喜ぶことに気働きをする心、優しい心、思いやりのある心等という様な
心にたてかえることであります。

例えば一つの身上を通して、身上の心の反対の心に心をたて替えることです。
胃を患う人の心には食べる事、飲む事に不足心が強いか、又見たり聞いたり
することが消化しきれずにいる人等が、胃の患いになるのでありますから、
その胃の患いを通して、食べる事、飲める事に感謝の心を養ったり、
見聞きすることに不足せず足納(たんのう)の心で通るなら、
身上が治まるのでありますから、その様に今迄の心から神の思いに適う心に
たて替える、これも一つの心のふしんであります。

この様に今までの心から、神の思いに適う心に作り替えることが、
心のふしんうと言う事であります。


 60 魂助けの道
 
このみちではよく、身上事情ばかりではない、魂助けの道であるとよく聞きます。

どうして魂助けの道なのかと申しますと、一口で言えば、甘露水の働きに依るから
なのですが、人間はもの心がついてから出直り迄の間に、彩やかな御守護が
目に見えない限り、信じられない程、心が汚れ過ぎているのであります。

従って甘露水を頂いたそれ丈では、その功能の理が見えないから、
信じられないかも知れませんが、この甘露水は魂に授けて頂くものでありますから、
出直りしてもその生命力と言う魂に浸み込んでいるから、来世また来々世には必ず
その功能の理は表れて来るのです。

その功能の理に依って人間の魂助けの道となる訳であります。
これは神の?大なる思いであります。
しかし人間の方はそんなに待っている訳には参りません。
神の方にも人間の疑い深い心を見て、身上、事情を通し心を養い、甘露水の功能の理を
見せようとしているのであります。

身上、事情と申しますのは、心の影のあらわれであります。
その心の立て替えに依って、身上、事情が解決し、神の存在を知るのであります。

身上、事情は道の華と申しますのは、この事を言うのです。
神が助けたいのは精神です。精神と言う心が救われない限り、身上、事情は
解決しないのであります。

このおみちに於て、神の存在を知ることに依って、甘露水を頂く事が多いのは、
一つには神の思いに依るからであります。
甘露水に依る魂助け以外に、人間が万劫未代迄救われると言う証拠は、
どこにもなくなってしまうのであります。

この道は証拠信心の道と言う様に、甘露水の功能の理が彩かに頂ける様、
頑張りたいと思います。

 


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