梅の木通信
心の話【S先生の日記】


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21 いただきます

日本人なら食事の時いただきますと感謝してから食事をする、
又、お茶やその他飲み物を飲むときにも
いただきますと言うと思います。
何故いただきますというのか、本当のことを知っている人は少ないと思います。

何処の家庭でも食事の前に「いただきます」食事のあとに「ごちそうさまでした」
と感謝の言葉を言って
いるのに、どうして言うのか御考えになった事がありますか?
なんだか分からないけれど親の代からやっているから、深く考えたことはないけれど
何となく習慣としてやっているんです。
「どうしてなんですか?」と、逆に質問を受けたりすることがあります。

先ほど頂きますは感謝の言葉と書きましたが、言葉は感謝の言葉であっても
本当の感謝の元が分からなければ、その言葉は生きた心のこもった言葉とはいえません。
どうして感謝しなければならないかと申しますと、人間の親である親神が人間が肉体を
もって陽気暮らしをする様子を見たいさせたい思いから、その肉体を維持するために、
食べ物一切を用意してくださってあるからです。

その食べものすべての元を、親神が守護し人間の知恵によって、おいしく食べやすくして、
食卓に乗せるからその人の、真心にも感謝の心を持たねばなりません。

例えば米や麦など作物を作る、たしかに手を掛けて種を蒔くのは御百姓さんですが、
どんなに御百姓さんが力があり知恵があっても、この大地と温み、水、空気の力が
なかったら作物はおろか、人間や他の動物でも一日でも生きていることは、
出来ないのであります。

そして御百姓さんにしても、その大地や自然(神)の恵みを頂きながら、おいしいお米を、
また質の良い麦を人様に喜んで食べていただこうと、真心をこめて作らせて
頂いているのであります。

米という字は八十八手間がかかると歌にもあるとおり、食卓に上がるまでには
いろいろな人の心がこもっているのであります。
このようにすべての食べ物には親神の思いと、作る人々の真心とが籠っているから、
「いただきます」と感謝してから食べさせて頂くのが道理なのであります。
ですから先祖代々、この言葉が食前食後に使われ今日まで残っているのです。

読者の皆さん、今日これを読んでなるほどと、御思いになりましたら、
今日ただ今から、心の籠った「いただきます」「ごちそうさまでした」を続けて下さい。
心が暖かくなると思います。

ありがとうございます

昭和60年12月21日
22 させていただきますは奉仕の心

人間は神の思いによって生きているのではなく、生かされているのであります。
神が人間に対する思いは、陽気暮らしを見たい、させたい思いによって、
生かさせて頂き人間が陽気暮らしが出来るように総てを神が用意してくださって
いるのであります。

神が人間に知恵を授けたのも、人間はその知恵によって、より豊かな生活をして
くれるだろうとの思いに、他ならないのであります。
ですからこの世は理詰めの世界と申されているのであり、この世の総てのものは
神に叶わぬ余分なものは一つもないのであいます。

神の思いの世界に適わぬのは、人間の心(人間心)の使い方なのであります。
理詰めの世界だからこそ、人間は感謝と懺悔以外にないのであります。
ですから何をするにも神に対し、させていただきます、○○を使わせて頂きます、
ありがとうございます。と感謝させていただくのが正しいのであります。

ここで言う何々をさせて頂きますと言うのは、神の日々のご守護に感謝、
神前奉仕、おそうじ、洗濯などさせて頂きますという感謝の心で奉仕させて
頂くのが理に適っているのであります。

形だけさせて頂きましても、心が不足を持っていたのでは、何にもなりません。
人様の御用や奉仕をさせて頂きますは、低い心、水心なのででありますから、
その心に真心を込めさせて
頂きますと、つとめさせて頂けたら、天にも人にも通じます。


ありがとうございます。                       昭和60年12月23日
 23 商い
 
親神様は商いは「高う買って安う売るんやで」と御教えくださっております。


今流の商いとはちょっとかんがえると商売のルールに合わない様に
感じると思います。高く仕入れて安く売ったら、利益が少ない、仕入れは安く、
出来るだけ利潤のあるように売るのが商売の秘訣のように感じると思います。
 

親神様は高く買う或いは高く買いなさいと、言っているのではありません。
仕入れの問屋に不足を持たすな、と教えているのであり、
仕入れの問屋があって自分の商売が成り立ち、お客様があって生活が出来る
ことを忘れるなと諭されているのであります。
 

ですから仕入れの問屋に感謝の心を持つことであり、
又、問屋に不平不満を持たせないように思いやる心を持つことであります。
 

お客様は神様です、とは三波春夫の歌の文句でありますが、
そのとおり道理に適っているのあります。お客様は買って下さるのですから
神様なのであり、売る人は買う人の立場に立って商いすることが大切なのであります。
 

お客様あっての商いであり、お客様の買ってくださったお金の何パーセントかが、
自分たちの生活の元になるのです。

ですから、ありがとうございますと感謝の真心を伝えることであります。
薄利であっても何時でも感謝の真心を伝える事に依って、売り買いの心と
心が伝わるのであり、
商いは、あきないことであり、あきないで何時までも淡々と
コツコツやることが商いです。

 ありがとうございます。     
                              昭和60年12月23日

 24 立つより返事
 
昔から諺に「立つより返事」というのがあります。
どうして立つより返事が先なのか、昔からそういう諺があるから、
知らず知らずに行っていると言うような答えが多いようであります。
分かっているようで分からない 立つより返事の本当の意味が分かって
いないからであります。

ではどういう意味かと申しますと、先ず「言葉は心と心をつなぐ道具」なのであります。
心と心をつなぐ道具ですから、自分の思い(心)を相手の心に伝えようとして、
例えばご主人が「おかあさん」と(言葉に心をこめて)呼んだとします。
その時おかあさんが、「はーい」と答えると、先ず主人の思い(心)を、
第一段階で「はーい」という言葉で接がれたのであります。

「はい」と合わせる心は水心、「親神」の心になのであります。

第二段階、主人が「○○を持ってきてくれ」と用件を伝える、
おかあさんは「はい」分かりましたといって○○を主人のところに届け、
「おとうさん○○これで良いんですね、ここに置きます」すると御主人は
「どうもありがとう」と感謝の心を伝える、「どういたしまして」とお母さんが
お父さんの感謝の言葉に応える。これで一つの目的が達成できたのであります。

自分を中心に考えてしまいますと、これはその時の状況にも依りますが、
「今、何々で手が放せないの」と自己主張して相手の心を切ってしまう、
これでは心と心をつなぐことは
できません。どんな時でも呼ばれたら 「はい」 と合わせる心の言葉が第一であります。
ですから、立つより返事、これで第一段階の心のつながりができるのであります。


                                     昭和60年12月23日
 25 すみません…反省の言葉
 
親神が人間に言葉を許されたのは、
「人間の心と心をつなぐ道具」としてお許しになられたのであります。

その言葉の中に、「すみません」という反省の心を表す言葉があります。
ではこの反省の言葉が日常正しく使われているでしょうか?
言葉そのものの正しい認識が少ないようであります。
従って反省の心を表す「すみません」の言葉も同じであります。

例えば、おみちの中でも 「お茶いかがですか、」という思いやりの言葉に対し
「どうもすみません。」と反省の言葉を使ってします。
もしこの場合は「ありがとうございます」又「ありがとうございます、もう十分頂ましたので、」
とお答えするのが正しいと思います。

相手の思いやりの言葉に対し、反省の言葉でなく、やはり思いやりの言葉
「御手数をおかけしてすみません」又は「雑作をかけます」のほうが
正しい使い方であります。

親神は言葉一つが用木の力、とお諭しくださいますが、確かに言葉一つによって、
相手の方の心が替わり助けさせて頂くことが沢山あります。
しかし、言葉のなかに心が籠っていなければ相手の心にしみこむ説得力がありません。
文字を覚えるのは頭です、でもその文字の本当の意味を悟るのは、
身体を通じて心が悟るのであります。

用木である私たちは、正しい言葉使い、つまり理に適った言葉使いを、
身につけなければなりません。
すみませんは反省の言葉です。その言葉に心が籠っていたら、
二度と同じ反省の言葉が出ないよう気をつけたいものです。

ありがとうございます。

                                    昭和60年12月23日
 26 言うは易し
 
諺に「言うは易し、行うは難し」というのがあます。
昔の人は偉いものだとつくづく思います。
言う事は簡単ですが、一つ身を持って実行しようとすると、
なかなか難しいことが出てまいります。
責任をもって言うという事は、裏側に実行がなければなりません。
言うだけ言うのは無責任です。ですから同じ諺の中に不言実行とい
う諺もあるとおり、実行はなかなか難しいのであります。

言うだけならば、誰でも口を持っているのですから、いえるのです。
しかし実行は難しい物なのです。

人間は口八丁手八丁などと言うようになかなかいきません。口八丁手八丁の
人も少ないのです。
人間は自分を中心に考えるから口八丁手八丁の人をあの人はうるさい、
口が達者とすぐに批判めいたことを言います。

しかし、手八丁のほうも見ているから強い批判が出ないです。
実行はできなくても、言うことは言う、これが人間の心であり、
神の心とは反対なのであります。

神の心とは思いですから、実行の心を受け取るのであります。
素直が神の望み素直に受けて素直に実行することで、
神の心に近づけるのであります。ですから不言実行という諺があるのです。

神の世界は思いだけであります。人間の世界も思いなので、通じる筈なのですが、
心がよごれているから、相手の心が映らないのであります。
そこで言葉を心と心をつなぐ道具としてお許しなされたので
あります。
しかし人間は本当の親の思いが分からず五感を通して判断してしまう
習慣がみについてしまっているのです。
そのため道理を踏み外して悩み苦しみ身上事情で本当の元が分かってくるのです。

しかし五感も神が人間に許したのであります。
その思いは五感を通して陽気暮らしをさせたいとの思いです。

言うは易し行うは難し、行いに依って身を通し心が本当の元を理解していくのであり、
ですから苦労は我が身のためなのであります。

言うは易し行うは難しより、不言実行で行きたいと思います。

ありがとうございます。

                                昭和60年12月23日
 27 男は月様の思い、女は日様の思い
 
 男は月様の理ですから水の理であり、女は日様の理ですから
火の理であります。
人間の男女はこの月日様の思いによって作られてありますから、
男女の思いも別々なのであります。

一家の家族の中でも主人より奥さんの方が強く心で、いつも主人を
尻の下に敷いておきますと、その奥さんは冷え性となってしまうのであります。
なぜなら、男は水の理でありますから、奥さんは例えばたらいの中に水を
組んで四六時中入っているのと同じことになります。
ですから女の冷え性はあっても男の冷え性は少ないのであります。

男の冷え性は心が氷のように冷たすぎるからであり、
奥さんに劣るからであります。

日様の思いは女の人の温かみと日々の働きの思いによるものです。
ですから女の人は日々、掃除、洗濯、お掃除、お料理等、毎日毎日の
働きが大切なのであり、理にかなっているのであります。

その反対に男は月々の働きをする、つまり男は月に一度月給をとる、
また月に一度奥さんに月給を渡す役割があるのであります。

ですから家族は、男女夫婦の調和さえ良ければ、旨くいくのであります。

夫婦は端々の人が認めたら、それは天の許した夫婦なのであります。
ですから神の因縁(白因縁)い依ってなされる相でありますから、
男の月々の給料を見て、その分相応の生活が出来るはずであります。

しかし、その理がほんとうに治まっていないで人は上ばかり見て暮らすものですから、
つい背伸びをするその背伸びが女の人が外に出て働き、夫の不足を自分が
働く事に依って補おうとする。大切な事は、心の貧しさに気が付かないことであります。

神は、「上見れば星、星、星の星だらけ、下見て暮らせ星の気もなし」
と諭されております。

夜空は星ばかりですが、その星一つ取ろうとしても取れるものではありません。
それより大地にしっかり足をつけて見て御覧なさい、この地球からは人間に
必要な食べ物やすべての物があるのです。

ですから高望みをする前に、まず家族の中を良く見つめて、ご主人に不足を与え
ないように、気働きして一生懸命奉仕することが、大切であります。

道理い適わぬ奥さんが外から働いて来るお金は、身につくものではありません。
男の給料も皆神の思いと、その夫婦の因縁によってその得分が定まっているので
ありますから、夫に感謝して、死んだお金を使わぬよう、生きたお金を使うよう心がけて、
夫に感謝し、夫は妻に感謝して通る心が出来たなら、これは理に適うのであります。

もうこれで良いと思ったら、その時から進歩は止まってしまいます。
男女共、親神様のそれぞれの思いを自覚して、共に助け合って生き、
足りないところを補い合っていく処に
陽気暮らしの道があるのです。

ありがとうございます

 28 子どもが親の言うことをきかないのは
 
 おさしずの中に、「親がことなり、子が親となり、生まれ順序は元の通りや」
とのお言葉があります。

これは、親神が人間子供達にたいしてお諭し下されたのであって、
人間の親子関係は今生は血を分けた親子であっても前世に於いて、
来世に於いての親子関係は神のみが知る処であります。

親神は人間の生まれや出直りのつまり、前世と今世、今世と来世に対して
黒いベールをちょいと降ろしたのやでお知らせ頂いてあります様に、
人間には前世も来世も分からないのであります。

そこで今世の肉親の親子関係に於いて、子供が親の言うことをちっとも
聞かないということを、良く耳にいたします。
これは親の方にしてみれば、苦労して育てたんだから子供は親の言うことを
聞いてくれるのは当たり前、という思いを潜在的に持っている。
一方子供の方にすると、産んでくれと頼んだ覚えがない、となってしまう。
この心の喰い違いが争点となってしまうのであります。

親神は子育ての最中は、無理せんで良いでと仰せられている
肉親の親子であっても、神の目から見たら皆可愛い神の子なのであります。
ですから子育てとは、神の子供を育てるのであるから、
無理に神慾はかかんでもよいと、仰せられていると思います。

この様に肉親の子供であっても神の子供なのですから、
子供に対しても感謝の気持ちをあらわさなくてはなりません。

子供が親の言うことを聞かんのは、この道理が分からず、
親の心の貧しさが子供に伝わってしまうからであります。

子供が親に言いつけられた用事が終わったとき、親は当たり前と思わずに
感謝の心、「ありがとう○○ちゃん」と伝えることを忘れているからであります。

感謝の心、ありがとうの言葉は自分自身も又、相手の子供の心を、
やわらかくして豊かにすることが出来るのです。

何でも当たり前と思ったら信仰はできません。
子供に対しても、ちり紙一枚、新聞一枚、電気をつけてもらっても、
○○ちゃんありがとうと、感謝の心を伝えるべきなのです。

大人の方にこの心使いが出来ない、心が貧しいから子供が言うことを
聞いてくれないのでありますから自分以外の人から、労力で奉仕していただいた、
ときは、必ずありがとうの感謝の心を伝え合いましょう。
これが信仰をもったら救われる、その元の理のことでありますから、
今日、只今から感謝の心を忘れずに伝え合いましょう。

ありがとうございました。

 29、当り前が信仰です

人が信仰をすると言う事は、神の思いである本当の元の理を
知るためであります。
その為には当り前と思うことに感謝が出来なければ、信仰はできません。

例えば、妻が料理を作る、掃除をする、洗濯をする等、
主人の方から見れば当り前のことをしている、
自分は外で働いて家族を養っているのだから、家のことは妻と子が
やるのは当り前と思う。
しかしこれは、一面思考であり自分から見て相手のすることが当り前、

二面思考、その裏を考えてみると、もし妻や子がいなかったらどうなるか?
それは自分が全部やらなければ埃やチリの山となってしまいます。
 

ですから当り前と思う事に感謝が出来なければ、信仰できないのであります。
自分自身にとっても当たり前のことが出来ているか、分かっているのかというと、
出来ているようで出来ていないし、分かっているようで、分かっていないのでは
ないでしょうか、
 

自分は分かっているつもりでも、相手の方が同じに思っているかと
言うと違うのです。
その違うところに問題があるのです。

ですから、神は人間に言葉を許し、心と心とをつなぐ道具として
認めておられるのであります。
 

一家の家庭に於いても良く話し合い、互いに本音で納得できたなら、
二人の心がひとつになり、その事が一つ一つ出来上がっていくのであります。
 

夫婦の絆も、親子の絆も、真心と真心の通じ合いの回数が多いほど、
夫婦、親子の信頼関係が太くなるのであり、これが絆なのであります。
 

信仰の始まりは、神の思いに依って人間が生きているのではなく、
生かされているのであり、総じて神の思いに依って運営されているのであります。

ですから人間は、神に対し感謝と懺悔以外に無いのであります。
当り前と思う事はすべて自己中心的な考えであり、二つ一つが天の理の諭しの通り、
その裏の現象を思いやる心を養うことが大切なのであります。
 

当り前と思うが、当り前でなかったら、自分自身で全部やらなければなりません、
ですから当り前に対する感謝の心がなければなりません。

信仰は感謝の心から始まるのです。

ありがとうございます。 

昭和60年12月26

 30 神の機械 
 
おさしずの中に、神の機械はあるか、ありやしようまい、
神の機械は年限続くのが神の機械である…、
とお知らせ頂いてあります。


神の機械は年限続くのが神の機械とは、何かと申しますと、
神の機械とは神の思いであり、人間に対する神の思いは、
人間の陽気暮らしの生活が、永久に続くのが神の思いであります。
ですから、人間も子々孫々まで栄える事が、神の望みなのであります。

人間は神によって泥海古池より今日まで繁栄して来られたのは、
一重に神の思いに依るものであります。


人間にとってもっとも大切な事は、夫婦の和合がもっとも大切なのであります。
ですから、男一の道具、女一の道具と、それぞれ一の道具として股蔵という蔵に
大切に保管されているのであります。

また、目に見えぬ大切なもの、人間の魂という生命力を養って行くのは、その人、
その人の心なのであります。その大切な心の蔵が、心臓と云う働きを神は諭して
いるのであります。

現代医学で脳死が人間の死とするか、心臓の停止が人間の死なのか、
いろいろ議論されております。
神の思いからすれば、心の働きが停止した時が、人間の死であると思います。
 

二つ一つが天の理とお諭し頂いております様に、心と男女一の道具によって、
神の与えた生命力を養い、肉体を維持し陽気暮らしが永久に続くことが、
神の思いと、人間の使命なのであります。  

ありがとうございます
 

昭和60年12月26日

 
 
続き 41〜

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