梅の木通信
心の話【S先生の日記】
11 信仰を持つとなぜ救われるのか、 |
信仰とは親の心を養い身につけることであります。 親の心を養うには理を学ぶことであり 身につけるとはその学んだ理を自分の身体を通じて実践することにより、 身について来るのであります。 親神は学問にない世界の話を教えると申されてあり、それはもとの理であり、 心の話、であります。 天の理とは親神の思いであり、その思いからこの世界をつくり、 人間を創造されたのであります。 おさしずの中に、「さあさあ、月日がありてこの世界あり、世界ありてそれぞれあり、 それぞれありて身のうちあり…」と仰せられてあります。 そして更に神の思いを明確にされ、人間の生きるべき道を教えて下されて いるのであります。 しかし、生かされている人間は神の思いが分からず、自分自身の力で生きているように 錯覚し、更に自己中心にして物事を考え、その考えを人に押し付け、心得違いや 理違いをして、自らの心で病の元や、事情の元を作ってしまうので あります。 心得違い理違いとは何かと申しますと、神の思いつまり道理に適わぬ心使いが、 すべて病の元となるといっても過言ではありません。勿論道を歩む人には、 神からの思惑身上等もありますが、これは少ない様であります。 この世は理で責めたる世界とも説かれてありますように、すべては神の思いに依って 創造され、運営されているのであります。 信仰をもつとその元の理、神の思いを一つずつ一つずつ、悟ることによって、 ものの道理が一つずつわかり、本真実の感謝の心や、また、生かされている喜び、 そうして真からの懺悔が出来るようになる様になるから人間は救われていくのであります。 昭和60年12月17日 |
12 憎い心について |
人の一生の中で憎しみの心の湧くときは数少ないと思います。 この憎しみの心が強いのが恨み心であり、ともに人間心であります。 こう書きますと読者の皆さんは安心するかもしれませんが、もう少し憎い心を 細かく拾って見たいと思います。 例えば、あの人は付き合い憎い人だ、話し憎いいとだ、働き憎い職場だ、 敷居が高くて家に帰り憎い等と よく聞く言葉です。この心使いは皆、憎いという人間心であり、 道理の踏み外しの心なのであります。 この心の元は何かと申しますと、俺が我がの「ガ」の心と高慢の心なのであります。 この心は人に合わせて通る水心より、はるかに高い心なのです。 皆さんもこの様な思いをしたことがありませんか? あの人は付き合い憎い、話し憎い、等「が」の心が強く、自己中心的に考え、 他人に合わせる心が少ないからであります。 こう書いてしまいますと、どんな人でも憎い心を使ったことが無いと、 言えなくなってしまいます。 お道では八埃の心と諭されておりますが、その大半は「が」と「慾」の心に 端を発していると思います。 この心のない人は一人もいないといっても過言ではないと思います。 憎いと思う心は自分を中心にして相手を見る、又考える心から生まれて くるのでありますから、この様な心が湧いた時には、胸の神にしっかりお詫びを して胸に手を当てて名号を唱えましょう。心が平常に戻ったら、それでよいと思います。 ありがとうございます。 昭和60年12月17日 |
13 理と現場 |
親神は二つ一つが天の理と教えてくださっております。 これはどういうことかと申しますと、相反するものの 調和が神の思いであり、道理であります。 例えば一枚の紙にも裏と表がある、電灯もプラスとマイナス、 こどもが生まれるのも男女の調和によって生まれて来るのであり、 この様に理と現場と申しますのは、理は学び現場はその実践であります。 この双方が一つになる、つまり身についたとき、 先ず理は学ばなければなりません、その学んだ理を一つ一つ家庭や この二つのことが、一つになった時は、神の思いに適うのであります。 理は学んだだけでは、身につきません。 神の話をする自分と、実行の姿の矛盾を無くす事が天の理です。 例えば神は商いは高う買うて、安う売るんやでと、 そうして聞いていることと、自分の行っていることに 自分の言っていることと、やっていることの矛盾を無くする事が、 ありがとうございます。 昭和60年12月18日 |
14 朝の挨拶 |
神は朝の挨拶は先に声をかけた人が七分の徳、後から挨拶を返すのは 三分の徳と言う様に教えて下さっております。 朝の挨拶は元気良く、声をかけ合いましょう等とポスターを見かけたことがあります。 これは理に適ったポスターだと思います。 何故なら、朝の挨拶は自分の心も勇め相手の心も勇めるのが、神の思いで あるからだと思います。 先に声をかける「おはようございます」は、自分自身の心も相手の心も勇め、 今日も一日元気でがんばろう、この声を聞いた人も、よし私も相手の方に負けない様、 一日がんばろうと心が勇みます。 そして朝の挨拶、昼、夜のあいさつは五分と五分が礼儀です。 また挨拶の基本は相手の顔を見て声をかけると良いと思います。 前を歩く知人には、その人の名前を呼んでから声をかけると良いと思います。 五分と五分とは言葉も動作も一緒に行うことです。「はいおはよう」、 「はいご苦労さん」これは理に適いません。 相手がおはようございますと声をかけたら、こちらも、おはようございますと、 声を返すのが、五分と五分でそれ以外は、理に適いません。御疲れ様でした。 これは声を掛けられた人は 貴方も御疲れ様でしたと、返すのが礼儀です。 立って挨拶されたら立って、座して礼をされたら座して行う、これが礼儀だと思います。 朝の挨拶は勇みの言葉ですから、元気よく声を掛け合いたいと思います。 ありがとうございます。 |
15 高い心からの言葉 |
心の高さの基準は水心が基準であります。 人間は水心から比べると高い心なのです。 これだけ読んだだけで、おや?本当かな?と疑問に思う人はすで に心が高いのです。 その高いところからの言葉、 ★その位のことが、分からないの? ★早く何々しなさい。 ★馬鹿、馬鹿野郎 ★あいつ、こいつ ★どうしようもないね ★早く来いよ、早く来なさい ★そんなこといったら駄目、 ★おい、お前だよ ★くれてやる ★そこをどいて ★これをやってよ、すぐやりなさい ★しっかりしなさい ★これも読みなさい ★頼むね、頼みます。 ★これを食べなさい ★あの人は駄目よ 等数え上げたら切りないほど沢山あります。 一般的に見ても命令口調は心がその人より高いようです。 また、投げやり的言葉、自己中心んして出る言葉もやはり 高い心からの言葉と言えます。 この様に言葉の一つ一つにも心の高さが自然と出てしまうのであります。 水心とは低い心、低い心からの言葉に命令的言葉はありません。 すべてやさしく、あたたかみのある言葉になるはずです。 上記の言葉は高い心の言葉ですから、反対の言葉が 低い心の言葉になるはずです。 ありがとうございます。 昭和60年12月19日 |
16 合わせる心は水心(鳴り物編) |
相手に合わせる心は水心であります。水心とは親神の心、 素直な心であります。 水は方円の器に従うというどんな人にも合わせて通る心が水心であります。 鳴物をつとめさせて頂く人は、他の人を思いやる心がなければなりません。 鳴物も一つ一つの道具を通して神は人間に心を諭しているのであり、 九つの鳴物を通して、一手一つの合わせる心を諭してくださっているのであります。 ですから真の拍子木の音をリズムをよく聞いて心は真に合わせさせて勤めさせて いただくことが肝要であります。 拍子木は堅い木ほど良い音が出るはずです。堅い木を用いるのは真としての自覚、 つまり鳴物に釣り込まれないしっかりとした心を養い、更に他の人の心を思いやり、 ゆっくり動作することが大切です。大太鼓、すり鉦等準備に時間がかかります。 その人々の動作等を思いやる心を養ってください。 その心で勤めさせていただければ、天の理がカチカチ鳴って来るのであります。 他の鳴物の人はそれぞれ鳴物の理をしっかり胸に治め、真に合わせて勤めさせて いただきましょう。 真に合わせる心は水心でありますから、理振りの歌を自分自身で口ずさんでいるようでは、 真には絶対に合いません。 耳を澄まして心を空にして、一心に勤める心を養うことが肝要です。 ありがとうございます。 昭和60年12月19日 |
17 不足心 |
不足心は人間心であります。この世の中は理詰めの世界であり、 神は人間に対しすべて陽気日暮らしの出来る世界が出来上がっているのに、 人間の心の貧しさが神の思いが分からず不足心 (自分中心で満たされない欲望の心)を持っているからであります。 心の理が悟れたら、人間は神に対し感謝と懺悔の心しかなくなってしまいます。 生かされている喜びは、感謝の心に入るからであります。 不足心があったら、神が百万の富を与えても満足することができず、 幸福感が湧かないのであります。 貸しもの借り物の教理が体験できて、その理が悟れ身についたら、 素晴らしい人になれます。 幸福感を味わうのもまた憎しみや悲しみを覚えるのも、皆その人その人の 心の味によるものです。 どんな地位名誉、財産が有り余っていても不足心があったら 幸福感が湧かないのであります。 親神は「欲にきりない泥海や」と諭されているとおりです。 これと反対に名誉、地位、財産がなくても、今日一日一生懸命健康で 生かさせていただくことができた。ありがとうございます。 信仰を持たない方でも毎日、毎日このように感謝して通ることが出来たなら、 その人の方が幸福感が味わえると思います。 感謝の心は神に適う心だからであります。 心の信仰が分かったら、感謝の心が良く分かります。 ありがとうございます。 昭和60年12月20日 |
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19 素直は水心 |
何でもハイ、ハイと受けて通る心は水心であります。 そうですね、本当ですね等と相手に合わせる心も水心であります。 どんなときでも人様に合わせて通ることの出来る人は、成神者です。 しかし形ばかり、また声だけハイハイと合わせて通っても心の本音に相手に 対し不足や不満をもっていたらそれは水心とは言えません。本音もたてまえも、 心の底から素直に受けて通るのが水心なのであります。 では、相手の人が理に外れることを言っている場合は、最後まで良く聞かせて頂いて、 相手の方の話が終わってからいったんは受けて、そうですね、 でも私はこのように思いますが如何ですか?と、心を返していったらよいと思います。 すると又先方から又、その答えがあります。その答えが理違いであったら、 理を責め道具にしないよう諭してあげることだと諭してあげることだと思います。 それでも相手の方が違う答えをするようでしたら、「人を見て法をとけ」、 又、「分かったほうから治めよ」の言葉を思い出し、治めてしまうことです。 その時、相手に不足心を与えないことです。 人の心には良心もあれば因縁心もあります。 相手の良心が目覚めるまでじっくり待つ心のゆとりが欲しいところです。 水心と言葉に心のこもった水心の言葉なら、どんな時でもどんな人にも、 あわせつなぐことが出来ます。 不足をもったら切れてしまうことを、忘れずにがんばりましょう。 昭和60年12月20日 |
20 本音と立て前 |
人間の心の中には、良心もあれば人間心もあります。 また、本音と建前ということもあります。 人間はずるさがあるから、本音がなかなかでないのであります。 例えば会議で一つのことが決まってもなかなかそれが実行されません。 勿論道理に照らして議決したことであってもです。 それはたてまえ論で本音が別のところにあるから、真から納得していないからです。 たてまえですから、誰でも納得が行くようでも本音という本心が別のところにあり それがいつか、どこかで出るつまり批判的な言葉として出てしまうのであります。 ですから実行が出来にくいのであります。 本音は心の奥にしまっておいて、たてまえ論に終始してしまう。 人間は「いつでも本音だけ言えるような家庭や社会や職場にならなければ、 神の思いに適わないと思います。 うわべだけで分かっているようでも、心が分からなければ何も出来ないし、 行動しても長続きしません そのことの真実を本音(本心)が、理解して行動したならばどんな時にも くじけることがありません。 本心と別の心、うわべだけ合わせる心がたてまえで、さも最もらしく言うのがたてまえです。 例えば小さいお子さんを見て、可愛いお子さんですね、色が白くて女の子ですか? 等と言う。しかし本心はどうか、それぞれ感じ方が違いますので、なんとも言えませんが、 内の子の方が可愛いとおもったらそれが本音であり、本心です。 ありがとうございます。 昭和60年12月20日 |