梅の木通信 本日習った大切な事

私の信仰させていただいている、おうかんみちの先生方から、教わった大切なことなど
書き留めさせていただいております。今まで気がつかなかったことですが、改めて学ばせて
頂くと、奥の深さに感動させていただいております。


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自由用十則について(06/10) お道を通る人の心得(06/10)
  いんねんの話(2006/10)


先日、おうかんみちの先生から、因縁のお話しについての、とても興味深い
お話しをいただいてまいりました。
誰にでも前世はあり、数々の悪因縁、逆に善因縁をつんで今世にたどりついている
そうです。
私の大好きなオーラの泉というテレビで、江原さんと三輪さんが、前世について
お話しなさっていますが、見るたびに自分の前世は、一体どんな事をしてきたのだろうか?
そんなことを思ってしまいます。

いままで、おうかんみちの先生から出していただいた、私の前世というと
かなり悪い事もしているようで、今世はそのことを深くお詫びさせていただきながら
日々通らせていただかなくてはと、妻とともに反省の毎日です。

ただ、前世悪事もしているぶん、善の行いもしていると、先生から教わりました。
それをお聞きして、少しホッと致しましたが、今世は決して心汚さず勤めなければ
そう思って生きて行きたいと思います。。。とかいいながら、癖処分はなかなかなおらず
時折、腹を立てたり悪の心が覗いてしまうのですが、少しずつ少しずつ、力を抜きながら
がんばりたいと思います。

前置きはこのくらいに^^、さっそく、先生から教わった「いんねんの話」を共に学ばせて
頂きたいと思います。


いんねんの話

@黒い土から、赤いニンジンが生えてくる。また白い大根が生えてきます。
それは、例えば隣同士であっても、種どおりのものが生えてきます。
これと同じく隣同士で同じ大学を出て、同じように一流の会社に入っても、一生は違うのです。
つまり、前世でまいた種が違うからです。種どおりのものが生えてくる。
これが、天然自然の理で、大根の種まいてゴボウが生えてくる訳はありません。

ひとりは営業関係で、ひとりは技術関係であるもの、また一人は重役まで行きますが、
一人は課長止まりというのも、前世で蒔いた種どおりの結果であって、
これをひとくちに、いんねんと申します。

神様のお言葉に
『成ってくるのが、天の理』 とありますが、天地間すべてのものが、この天理によって
支配されているのであります。
この天理すなわち、天の支配率の一つに、「いんねんの理」「いんねんの法則」がありまして、
一人としてこの法則の網から逃れる事はできません。
それで世の中には、目の不自由な方や、体の不自由なかたなどが存在する、
みな「いんねん」通りなのです。

この道は、天の理、すなわち「いんねん」の理をよく学んで、
過去の「いんねん」を精算して善いいんねんに立て直していく道なのです。
幸い「おうかんみち」では、何事かありますと、扇のお伺いによってその原因を知る事が
できます。お伺いを致しますと、お伺いをいたしますと、その身上(身にふりかかる災い、
病気など)や事情(身にかかわる以外の災いなど)の原因をお知らせいただくことが
できます。

「そなたは、前世でこれこれの行いがあった、例えは親不孝があったとか、夫婦仲が
よくなかった」など、悪事心(いんねん)を、お知らせくださいます。
これらは、いわゆる悪いんねんであって、善いいんねんではないのであります。
前世、今世で悪因縁を作った人は、それだけの償いをせねばなりません。
それが「いんねんの法則」なのです。
人を殺せば殺される、また殺されるような目にあわなければなりません。
お金をだましとれば、取られます。親不孝をすれば、こんどは自分の子供に親不孝
されねばなりません。

これが天理というもので、逃れる事はできない仕組みなのです。
これを逃れるには、前世、今世のことを懺悔しなければなりません。
「つくし」「はたし」のざんげをして、心を立て替えねばなりません。
他に方法はないのであります。



A「いんねん」のお許しを頂くには、「つくし」「果たし」の懺悔をして心の立替をしてくれと
言う話をしましたが、その方法を教えてくださるのが「おうかんみち」であり
甘露台様なおであることを覚えておいて下さい。

悪い事を誤ってした場合、もう助かる術はないかと申しますと、そうではありません。
そこに親神様のお救いがあるのです。そこに信仰の有難味があります。
人間の多くは悪いんねんを沢山もっております。普通いんねん申しますと、
悪いんねんのことを申しますが、人間には悪いんねんばかりでなく、善いいんねんも
あるのであります。つまり人間は悪いんねんばかり積んでいるのではなく、善い事も
たくさんしているのであります。
今日こうして一言でも神のお話しを、お聞きするのも、善い因縁があるからと
思ってください。

神様がいくら助けてあげたいと思っても、善いいんねん=白いんねんとも
申しますが、これがない人は神の言葉におすがりする事も出来ないのであります。
仏様も『縁なき衆生はは度し難し』と言っておられます。

私達が普通いんねんと申しておりますのは、悪いんねんのことで、
皆さんはこの悪いんねんの障りによって、苦しまれているわけです。
そういう人たちを親神様は哀れと思し召して、用木たちをつかって、お声を
かけて下さるのであります。
そうして、運びの機縁を作ってくださいます。運ぶ事によって、皆さんは
神のおさとしを聞き、自らのいんねんを悟って、心の大切さを身に染みてしり
いんねんの納消に努力させていただくことになります。

そして過去の悪いんねんを納消し、善いいんねんを積む事を心がけ、幸福になる
未来へ一歩一歩前進することになるのであります。

天地間のことはすべていんねんの法則によって動いています。
上は天皇から下は一般市民の私達まで、いんねんによって支配されていると
おもってください。ですから私達は自分のいんねんをよく解からせていただいて
その納消に心掛ける必要があります。だらだらと、いんねん解きだけに頼っては
いけません。心の立替え(善の徳積み)と、悪事心を二度と使わないと言う
心定めが「いんねん」を切ることになります。


 書き込みさせていただきながら、反省させられる事ばかりでした。
『だらだらと、いんねん解きに頼ってはいけない、心の立替と善の徳積み、二度と悪事心を
使わないという心定めが「いんねん」を切る事になる。。。。。』

このことこそ、生きていくうえでもっとも大切な、心掛けであると、深く反省させられました。
いんねん解きをしていただいて、その後喉元過ぎないうちに、心得違いをしてしまったり
せっかく親神様がいんねんをお切り下さろうと、してくださっても自らがまた、いんねんを
引き寄せてしまう行い、深く反省させられております。
喉元すぎればでなく、今世命あるかぎり、この教えは守っていこう、そう誓い、行動を
しなければ、いんねんは切れない、くどいようですが、反省です。(信)


Bいんねんと言うものは決して単純なものではなく、いたって複雑極まるものでありますが
大きく別けると、先祖のいんねん、前世のいんねん、今世のいんねん、に分けることが
できます。これらが総合られたものが、自己のいんねんであり、今世はたさねばならない
「あなた」のいんねんと言う事になります。

今世、悪いんねんが回って来ますと、あなたは支払いの番となり一生苦しんで
はたさなければなりません。
もしも、白いんねんが多く、受け取り番にまわったときは、幸せいっぱいで、何をやっても
うまくゆき、家庭も平和、子供も親に心配をかけること様な事もなく、万事に円満であります。

この理法をはっきり知る事が、いんねん納消の第一歩と言えます。
また、この理法さえ解かれば、いんねんの納消は、早いわけです。
この理法が解かって来ますと「つくし」「果たし」についても不足が出ないのです。
反対にこの理がわかりませんと、不足ばかり出て、百万のものは百万円払わなくては
ならず苦しまなくてはなりませんが、早く理を悟って懺悔すれば、百万のものは十万、
十万のものは一万ですむよう、お手配があるとのことです。
お金で済むうちはよいのですが、大切な足一本、手一本なくしてしまう方も、あるようです。
「いんねん」とはそのようなもので、家をつぶしてしまうのもいんねんです。

また、一代で駄目なら二代で、二代で駄目なら三代でと、支払いが済むまで払わされます。
それが「いんねん」の恐ろしい所です。我々は毎日心の掃除をしませんと、知らず知らずの
うちに埃をため、それが「いんねん」をつくるもとになります。ですから、一つのいんねんを
解いて頂くにもそれだけの感謝がなければならないのです。
みなさんはそんな感謝の気持ちでいんねんを解いていますか?



C次は、先祖のいんねんについて、お話しします。
先祖が一億の借金(一千万でも百万でも同じですが)を残して死ねば、その子供は当然
それを支払わなければなりません。子供一代で支払いきれなければ、残金は孫が
支払わなければなりません。孫が払いきれないと、その孫の子が払わされます。
これを持ち越しのいんねんと申します。

反対に一億の財産を子のために遺しますと、子供は当然それを受け継ぐことになります。
どちらも、それを先祖のいんねんと申します。
我々は子供達によいものを遺す義務があります。子供達を悲しませるようなものを
遺しては可愛そうであります。借金を受け継ぐか、財産を受け継ぐかは、前世のいんねん
次第であります。
せっかく親が遺した財産を、失くしてしまう子供もあります。又、親の遺した借財を返し
なお一代で冨を築く健気な子もおります。
これは立派にいんねんを切った姿といえます。

先祖が山に木を植えておきますと、二代か三代の子孫は、これを伐り出して
家を建てるとか、倉を建てることができます。もし先祖が山の木を伐ってしまって
あと苗木を植えずに放って置くと、子孫は何も得ることはできません。
種を植えておかねば、何も生えて来ないのが道理です。
先祖が山の木を全て伐ってしまったあと、植え付ける番に回った子供のことを
支払い番に回った人といいます。この支払番に回った人というのは、実は何代か
前に山の木を全部伐ってしまって所得を得たご当人であります。
いんねんの糸を手繰っていくと、そういうことになります。

先祖が不当所得をして人の財産をごまかしたら、その子孫がその尻拭いをしなければ
なりません。。災難病難でその分を払わなければならないのです。
それがいんねんの法則と言うものです。
自分がいんねん積んだ覚えがないのに、なぜ自分は何をやってもうまくいかなぬ
又、働いても働いても、すこしも金が残らぬという人には、それだけ前世での借りが
あると思わねばなりません。その借りを返しきったら、必ず家計は楽になるはずです。

「親が子となり、子が親となり」というお言葉があります。
ですから自分では前世の事ですから、自覚はありませんが、先祖のいんねんと言っても
案外に自分が前世で作った場合もあります。
ですから謙虚に先祖のいんねんは、我がいんねんと思って懺悔をして、かつ心の
立替をしていんねんを切る様、努力しなければと思うのであります。
その方法は「おさとし」が教えてくださるはずです。




D人間は心のゆるみ油断から、いつ、いんねんの芽が噴いて出るか解からないので
注意が大切です。
勿論、いんねんの根があればの話で、根がなければまずその心配はないでしょう。
お道についている方でも、やはり日々常々心に油断があってはならないのです。
その為にも教理を勉強して、平常からいんねんを解き、心を低くもって月に一度は
教会に参拝して、「お言葉」を頂くという心がけが大切です。

今世、知らず知らずに作ってしまったいんねんもありますが、先祖より引き継いだ
いんねんもあり、その中には、いろいろな種類のいんねんがあり
数え上げたらきりがありません。
それを親神様は、「何代前世のいんねん」とやさしくあなたのプライドを
傷つけぬようお諭し下さいます。ありがたいことと、思わねばなりません。
善いいんねんの財産は、子孫をまもりますが、悪いいんねんの財産は子孫を
苦しませるといわれます。競馬や競輪、ばくちで儲けた金で人を助けたり
教会を立てたと言う話はあまり聞きません。

ある家系の人は、一代はよくても二代目は苦労するように、白と黒のいんねんに
ない交ぜになって、交互に絡み合う糸のように、良くなったり没落したりする
家系などもいんねんによって作られるようです。

お寺さんに行ったとき、お住持のお話しを伺いましたが、昔ある高僧が
「自分は今京の町を歩くと、諸氏が土下座して私を拝むが、もし私の前世の
いんねんが現れたら、私も人殺しをするかもしれませんよ」と、いねんの恐さを
話されたそうです。高徳な上人でもかくの如くいんねんの恐ろしさを
講じられています。気をつけましょう。




E今度は前世のいんねんについて、お話ししましょう。
前世というのは、貴方が前の世でつくったいんねんのことです。前の世でということは
前の世にあなたは生きていたということです。人間は生まれ変わり出変わりして
今日生きています。このことが解からないと前世のいんねんということも、判らないのです。

「心は末代、身は一代」というお言葉があります。心で蒔いた理(種)は末代まで残りますし
身体は一代限りのものですが、魂は生き通しなのです。
人間は死んでも、心で蒔いた種は良いものでも悪いものでも、次代から次代へと
伝わっていきます。
悪い種を蒔くと、その種がいつか芽生えて、生まれ変わり出代わりして、果たしてゆかねば
なりません。
その代良い種を蒔いた人は、生まれ変わり出代わりして、幸福な生活を享受できます。

心遣いは末代まで影響するので、このことはよく覚えておいて下さい。
なぜなら魂は生き通しだからです。人間の魂は肉体は死んでも生き通して、
親神様に産み降ろされてから、ずっと久遠の彼岸にむかって、悠久の旅をつづけて
いるようなもので、みなさんの今世は、その一こまにすぎません。

人間の今の一生の出発点は、おぎゃーと生まれた時からで、年老いてその肉体を
神様にお返ししたときが、終点なのです。
みなさんの生まれる前の過去の世界が、前世であり、前世に通った道、つまり心遣いが
今世に現れ、幸、不幸を決定的にします。
だから、親神様は常に心づかい、心づかいとご注意になるのです。




Fいんねんは神出鬼没であって、時期を選ばず入院する人、倒産する人、戦争を始める国
などさまざまです。皆さんは自覚がないと思いますが、知らず知らずのうちに、
いんねんどおり生かされております。
お言葉に、『いんねんなら、通らにゃならぬ、通って果たさねばならぬ』とあります。
ですから、みなさんは知らず知らずのうちに、いんねん果たしの道をあるいていることに
なるのです。

前世親を捨てた人は、今世オギャーと生まれると共に、親と死別する場合もあり
夫を捨てたら捨てられるいんねんとなり、子供を降ろしたりすると来世は、子供が
欲しい欲しいと思う夫婦となってしまいます。百万円やるからこのいんねん引き受けてくれ
そうたのんでも引き受けてくれる人はいないのであります。

「難儀さそう、不自由さそうと言う神はあろうまい、人間幾何名の子でも皆可愛い。
神も同じこと」と言うお言葉もあります。
子を思う親心はこうしたものであります。親神様はいんねんの理法によって
何十億の人類を支配していますが、その心は今申したように、温かいものであります。

いんねん深いものでも、それを一日も早く納消して厚生してほしいと言う親心です。
実際に我々のいんねんは現実の十倍もあるのに、これくらいで許してくださっている
そう思う心が大切です。
その心になれば、どんな中でも喜んで通る事が出来るはずです。

前世の事、もっと詳しく知りたいと言う方がまれにありますが、
「前世がわかったら、誰も顔を上げて歩けまい。それで一代限り黒い幕をたれて
判らんようにしてある。」とも仰せになっております。人間は八千八度生まれ変わって
来たと申されます。一代で七つ八つのいんねんを作ってきたとしても、五万か六万の
いんねんは作ったでしょう。
しかし貴方が今生で果たすいんねんというものは、せいぜい七代か五代前のいんねんと
思ってよいでしょう。

心が出来て一度善根を積んだ人は、一度のいんねん解きで、幾つかの同いんねんを
解く事が出来ると申します。
一方では、一つのいんねんを解くにも、誠が足らず、何時までたっても跡の切れぬ
解き方をしている人もあるようですが、しっかり納消してほしいと思います。
持ち越しのいんねんを出来るだけ作らぬようにしたいものです。




G次は今世のいんねんについて、申し上げます。
人間15歳までは親のいんねんと説かれています。15歳までの子供が見せるいんねんは
親のいんねんの写しと思って下さい。
皆さんが今生のいんねんと言うときは、ご自分の15歳以後、今日まで通ってきた道に
原因があると思えば良いので、その点さんげもし易いと言えます。
但し皆さんが通るべきいんねんのうちには、今世ばかりでなく、前世からの持ち越し
いんねんもあると思ってください。
又今世でも貴方のプライドを重んじて前世のいんねんと解く場合もあります。
よく聞いておれば、ハハア!と判る事があります。

だいたい、前世のいんねんは、目上すなわち親・夫・上司とかに現れて、御注意があり、
今世のいんねんは、目下のものにはっきり現れるなど申します。
どのような親を持たねばならないかは、前世よりの約束事と思うべきです。
どのような子をもつのも、今世通った道すがらのさんげと思えばよいのです。
簡単に申せば親が第一の結婚に失敗すれば、子供もその通りの道を踏むかもしれません。
親不孝をすれば、親不孝をされて、こんな子供いっそ殺してしまおうかと、子供を敵にすれば
その子供が成長して、親を目の敵にする。短期で通れば子供も短期、欲張りなら、子供も
欲張りでしょう。

いんねんというものは複雑微妙なもので、このように書いたように単純にはまいりませんが
こう考えて大体間違いないと、思ってください。
瓜の蔓にナスは生らぬと思ってよいでしょう。なかには親が怠け者だったが子供は
働き者と言う場合もありますが、それは親の代でいんねんが切れたからであろうと
おもいます。




H我の強い人にはいくらいんねんの理を解いても、受け付けてくれないものです。
それは我の強さから神様に負けたくないからです。我がつよいと未亡人になりやすく
子供に先立たれたりしやすいと申されます。
つまり孤独の境涯に陥りやすいと言われます。

それと我の強いと言う事と、踏ん張ると言うことを混同してはいけない、ということも知って
おいて下さい。
神様のお言葉に、
「突っ張ってはならぬ、踏ん張れ。」と言うのがあります。突っ張ると言うのは自分の我
高慢で人を寄せ付けない心で、踏ん張るというのは、引き受けて耐える心である、
との事です。

この二つの心の使い分けは、なかなか難しいことで、やはり幾重の道を通ってはじめて
出来る心のようです。
一里わき道したら、一里戻らねばなりません。十人を苦しめれば、十人に苦しめられる
いんねんの通り返しがあると思ってください。
なんでも悪いと思ったら、すぐにざんげするのが一番で、一里行ったら一里もどる理
となるのでしょう。


先祖、前世、今世と、それぞれいんねんについていろいろ、お話ししてきましたが、
大体いんねんとはどういうものか、お判りいただけたと思います。
この三種類のいんねんは、個々に現れるばかりでなく、それぞれ深い関連性があって
天理に従って現れてまいります。
深い関係についてはお伺いによる以外は知りようがありません。

いんねん浅い人はおうかんみちでなくても、助かるでしょうが、
皆さんは、いんねん深いゆえに、このおうかんみちに導かれたとおもってください。

先生方の中には、白いんねんの多い先生もあり、黒いんねんを潜り抜けてきた先生も
ありと様々です。
白いんねんの多い先生は、あまり苦労していないので、いんねんで苦労している人の
苦しみは判りません。ですから、「あなた、いんねんばかり解いていたって、キリがないのよ、
ようは心の立替が大切なのよ。」と、谷底にいて苦しんでいる人に、いきなり高度な心の
立替を要求するのを見かける事がありますが、それは無理だと思います。

まず谷底から地上に引き上げてあげるのが大切で、それにはまず、いんねんの苦しみから
解放してあげなければなりません。いんねん解きのお話しの中には、ほどほどに理話しも
入っていますから、それでその人は、いつの間にか谷底から地上に出てくることができます。
そこで、心の立替を仕込んであげるとよいと思います。

つまり、這えば立て、立てば歩めの親心という言葉もあるとおり、ものには順序があります。
これをお道では「段々の理」と申しております。人を助けるにも
「腹減った時、もの食べたような訳にはゆかぬもの。」
というお言葉があります。
「一貫の荷を背負って行けるようになったら、二貫の荷を背負わせてみる。」
というお言葉もあり、親神様はこうして我々を成神させてくださるようであります。




Iこれまでいんねんについて、思いつくままに、お話ししてきました。
今現在あなたに不幸や不足がつづくのは、それはあなたの前世から今までの心づかい、
心の種まきの結果であることが、判って下さればよいのです。
幸せだなー、と思うのは善い種まきの結果で、どうしてこんなに苦労するのかなあと
思うのは悪い種まきの結果だと思ってください。

そして種まきをした人は、これからも善い種まきを、蒔き続けて、いよいよ幸せになって
頂きたいし、苦労のみの人は早く心の立替をしていんねんを納消し、善い種まきを
心掛けるべきです。
善い種を蒔くのに遅いと言う事はありません。今からでも良いのです。
悪いんねんの家を善いんねんの家に建て直す好機会と思って、心の転換、心の軌道修正を
していくことが肝要です。

世界には「七転び八起き」という言葉があります。それは七度転べば八回目には気がついて
立ち上がるであろうし、また神様のお助けも頂けるであろうと言うのですから、
七回も転ばなくても、一度で気がついて立ち上がろうと努力するのが、賢明だと思います。
その方法の一つとして、本教の「いんねんとき」(いんねんゆるしとも言う)があり、
それに縋ることの出来る人は幸せだと思わねばなりません。

いんねんを説いて頂き、三日とか七日のおわびとか、神様はもうされますが、
「ざんげ」という意味が良く解からない方がいます。ただ、「お許し下さい」と形だけ頭をさげて
「おわび」が叶ったと思っている人が少なくありません。
「「いんねん」といたら、「お許しいただけたでしょうか?」と伺う位にしたいものです。
形だけのお詫びをしても一向に身上も事情も好転しない人は、このことを覚えておいて
下さい。お詫びは真剣でなくてはなりません。
この点、キリスト教で説く「悔い改めよ」という説き方は良いと思います。
「悔い」はお詫び、「改めよ」は二度と同じ過ちを繰り返さないことで「ざんげ」の意味は
このようなものと思います。

これでいんねんのお話しを終わりますが、いずれにしろいんねんになる様な事はせぬように
八埃に気をつけて通りましょう。
※八埃(欲しい、惜しい、憎い、かわいい、恨み、腹立ち、欲、高慢とそれぞれの心
親神様はこの八つの埃心をいましめよともうしております。)


中国の言葉に、「百年河清を待つ」と言うのがあります。
濁った川の水が、澄むのを百年も待っている人の愚かさを笑ったものです。
浚渫(しゅんせつ)河の底の掃除もせずに、自然に澄むのを待っていても、河の水は
きれいにはなりません。いくら自浄力があっても、川上では毎日ゴミや不浄物を平気で
投げ込んでいる人があるのでは、百年はおろか、万年たっても河の水は澄む訳はありません。

人間も同じだと思います。個人個人が努力して日々胸を澄まして行けば、必ず神成人も
出来るのです。
おうかんみちのお勤めの言葉のなかで、日々「一列澄ます甘露台」ととなえる私達には
甘露台の手足となって、世界一列の心を澄ますお手伝いをする責任があるのです。
埃を撒かぬよう、お互いに努めたいものです。



追記1、

私達がよく言う因縁とは、悪因縁の事が多いようでうす。その悪因縁にもいろいろあり
土地の因縁、家の因縁、前世の因縁、今世の因縁、魂の因縁等であります。

土地の因縁と申しますのは、その土地、その土地に付いた人間の思いや、動物の霊等に
よって知らされる事もあります。
例えは家を新築する場合には、必ず四方を清めるといって、地鎮祭を行いますが、これは
その土地についた因縁をはらい清めるために行うものであります。
現在は神職の方が行っておりますが、家を新築してから間が悪いとか、病人続きで困った
などとよく聞く話であります。昔は神職の人が神降ろしを行い、お伺いをしてその後、
その因縁を納めてから地鎮祭を行ったものですから、土地の因縁によって災いが起るという
ようなことは少なかったのであります。

家の因縁というのは旧家に多く、また知らずに購入した中古住宅等で、その家で自殺をしたり
病で苦しみなくなった人のあった家の場合等は、すんでいた人の強い執念がのこって
おりますので、その因縁をしらされることがあります。これらは過去の因縁でありますから
その霊を慰めて、今世そこに住む人が先祖を大切にして、人に功徳を施すことによって
通らせていただく事ができます。

前世因縁と申しますのは、自分が前の世に生きていたときに知らずして作ってしまった
罪がのこっておりますと、その種が元になって、今世自分自身に現れてくるものであります。
例えば生まれながらにして、体が不自由であったり、又十五歳までの強い身上等は、
親の心づかいの良し悪しにもなりますが、そのことによって不自由になったりするのは
前世因縁といって諭されております。

今世、因縁ともうしますと親神様は15歳までは親の心づかいと諭されているように
15歳を過ぎて現れてくる因縁と申しますのは、前世因縁もあり、魂の因縁もありますが
今世自分の心や行いで蒔いた芽生えによるものであります。
例えば俺が我がの「我」が強く、自分の意見ばかり通し人の言う事に耳を傾けない心は
埃心でありますが、それがそのままとおりますと、身上に現れてまいります。
その埃心の積もった結果が胃癌となって現れるのであります。つまり埃心の芽生えなので
あります。また大きな交通事故をおこした人の因縁をといて見れば、前世において色情や人殺しをした、その因縁があるから今世果たしをしたのであると、お諭しがあります。

しかしここで大切なのは、前世を今世に置き換えて悟ることがもっとも大切なのであります。
親神様は、おさしずに「さんげという一つは受けとる。」また、「さんげだけでは受け取れん、
それを運んでこそ、さんげという。」と仰られております。

親神様によって生かさせて頂いていることの分からぬ初心の方に対しては、
「神の力を見せる、又心が開けるその真心を一つ受け取る。」と申されているのであります。
さんげの心を実行に移してこそ、その因縁が納消される。つまり身上事情が治まっていくので
あります。
先ほどの交通事故の例にしても、大切なのは親神様の慈悲の心から、前世と解いて下さった
と悟り、色情や人殺しはもとより今生の言葉や行いで人の心を傷つけたり、或いはがんじがらめ
にして人を責めてしまう心を反省し、自分に厳しく人に寛大になってこそ、その因縁が治まるので
あります。
はじめにも申しましたが、私どもが今日こうして生かさせていただいているのは、まず神因縁
(白因縁)があるからです。どんな苦難の道中であっても、神因縁があるから生かさせて頂いて
いることを忘れなければ、感謝して通れるのであります。


追記2
いんねんの納消について、

因縁とは原因と結果のつながりであり、人間が知らず知らずに使っていた心が理に適わなければ
その心づかいが限界に来た時、一つの結果(身上、事情)が現れるのであります。
その元は心であり埃心であります。行動に移る前に心に思うことが、理に適わぬのが埃心と
諭されているのであります。
ですから日々の生活の中にどれだけ真剣に、又理に対し反省や理を通して心を見つめて
生きるかによって、埃をつけるかつけないかに分かれてしまうのであります。
どんなに信心していても、その元すなわち心が分からなければ、因縁を果たしながら因縁を
つんでしまう結果となるのであります。

したがって因縁の納消とはまずその因縁を良く自覚し、どんな身上事情に遭遇しても、
それを理解し、受けて果たしをさせていただくという心を持って、感謝してとおるようになれば
一つ一つ因縁が切れ、人の喜びが我が喜びと、心から思える日々になり、因縁の芽生えが
なくなるのであります。このように心で蒔いた種の芽生えが結果として現れてくるので
ありますから、日々は感謝と懺悔のあけくれで、人には親切に、己は理に厳しく生活する事が
大切であります。


管理人(信)あとがき

以前おうかんみちで本当にお世話になっている先生よりこの因縁のお話しを
お借りし一度読ませていただきましたが、改めてこうして自分で打ち込みをさせていただき
ながら読み返させていただくと、本当に奥が深くおうかんみちの教えの元がつまった
素晴らしいお話しであると、感動させていただくことができました。

追記の中でありました
「日々は感謝と懺悔」
「人には親切に」
「己は理に厳しく生活することが大切。」
これから先の人生、この大切な教えを胸にしっかりもちながら、高き志をもって
生きていけたらと、思わせていただけました。この文章をつくってくださった
おうかんみちの先生には、心から感謝しております。

昨日妻と話していたことですが、どんなに辛い目にあったり、ひどい理不尽なことを
言われたり、誤解をうけて相手が理解してくださらなくても、親神様がしっかり私達の行いを
見ていてくださる、そう心におもって耐え忍んでがんばっていこう。
そして、私達が目指すことは、この人のそばにいるだけで、心がやすまり温かい気持ちに
なれる。」そんな風に思っていただけるような、暖かく潤いこころをもった人になれるよう
がんばっていこう。そう誓い合いました。

そんためには、決して難しく考える事無く、上の三つの教えを守り日々実行させていただく
ことでよいのだと理解させていだだけました。

これから先、親神様の御心に少しでも近づけるよう、潤いのある暖かい心づかいを
忘れずに生かさせて頂こうと、おもいます。     













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