梅の木通信
心の話【S先生の日記】
9 心の高さについて |
良く教会の内で耳にする言葉に、心の高低の声を良く耳にいたします。 心の高低は、何を基準にして高い低いというのでしょうか、御考えになったことがありますか? 本当の意味が悟れて使われているでしょうか。 これは親神の心、低い心水心を基準にして心の高低の言葉が出来たのだと思います。 人間は神の心(水心)より低い心の持ち主は一人もいないといても過言ではないと思います。 ご承知のように水心とは、どんな心の持ち主にも合わせつ接ぐことのできる言葉であります。 その水心よりひくい心には、人間である以上なれないと思います。 しかし現在の心より低い心にはなれると思います。 例えば悟りをひらく、これは水心になったとき初めて道理がわかったのであります。 また、親神は三歳心になりて来い、とも申されております。 三歳の心には邪心がない、そして素直な心のであります。 そして誰にでもあわせるこころなのでありますから、三歳心【子供の心)は低く神に非常に 近いのであります。 普段つかわれている心の高さとは、自分の心を中心にして、相手の心の高さと云々しているのでは ないかと思います。 人間はみな、心のものさしをもっていますから、そのものさしですぐに測ります。 その心のものさしは知恵や経験、常識等であり人間各個人個人皆違うのであります。 そのものさしで相手を測ってしまう、それが自分の心に入ってしまうから、何時でもその人をその目で 見てしまいます。 その為に大きな過ちを犯してしまうのであります。 神の心の水心は低い所、低い所と合わせる心でありますから、この水心が基準でなくてはなりません。 例えば道理を聞いて、あの人の言っていることはおかしいと思う、その心は高い心なのであります。 道理は神の心であり、誰が聞いても成る程、成る程の理だからであります。 ではその道理からどのくらい高いのか、と言っても、その高さが何センチなのか何メートルなのかは 人間には分からず神のみぞ知るところなのであります。 ですからこれは非常に難しい問題であります。 人が人を裁くことはない、神が裁くのでありますから、人の心の高さを取り締まる必要は無いのですが、 つい一言がでてしまう。それだけ人間は心が高いのであります。 その高い心をとって、低い心になるためには、「はい」と言う素直な心を実行して行くより無いのであります。 そして、相手の話を良く終わりまで聞いて、それから相手の言っていることが間違いであったら、 そうですね、でも、、、、、、だと思いますが、という様にまず相手の心に合わせる心を養っていく以外に 方法はありません。 これが水心に近づく第一の方法と思います。 人間は見たり聞いたりしながらも自分のものさしで相手を測ってしまいます。その見聞きによって その事が不足に思えること、すべて自分の心が高いのですから、気をつけましょう。 不足に思うことはすべて自己中心の心であります。 ありがとうございます。 |