心の話【S先生の日記】


心の話目次へ

91 魂と心と身体


人間は神より貸し与えられた、魂という生命力と心が本体であります。
その魂と心は姿形がありませんから、なかなか理解しにくいのです。

人間は五感を通して物の形や色や大きさ匂い等を知って行きます。
そして頭や心に記憶します。その為に、目に見えぬ魂の働きや心が
分からなくなってしまったのです。

余りにも五感と智恵に頼り過ぎて、すべて実証されないと
すぐ信じられない程、五感に頼っているのであります。
例えば人間には、九つ胴と道具を貸し与えて頂いておりますが、
その道具を使わせて頂く元は、心の働きが最初です。

一つの仕事をやろうと思いついた心、次に具体的に考えるのが頭、
そしてこれで良しと腹を決めて行動するのであります。
勿論魂という生命力の働きがあるから、心も身体も自由自在に
動くのであります。

心の働きに依って動く道具と魂の働きに依って、心の指令がなくても
動くものであります。
例えば心臓や肝臓、腎臓等は魂の働きに依って動いているのであります。
この様に人間は魂と心の働きが元で、身体はその魂と心の入れもの
なのであります。

病気も気の病い、つまり心が理違いして病むから、その心の影が身体の表に
出て来るとことが病気と言うことであります。
ですから心が理に適ってさえいれば心が病むことがないのですから、
健康で働くことが出来るのであります。

しかし、人間は「我」の心が強く、どうしても不足をしてしまいます。
その不足の心が身上となることも知らずに暮らしているから、
病気となって苦しまねばならないのであります。

心通りの守護ですから、先ず理を学びそれを実行していくことに依って
心が育っていくのです。

 

 92 気は長くが神心
 
人間は我ままで、疑い深く気短なものです。
神の心もわからず自己中心で考え、我が思いの侭にならなければ、
相手を攻めて自分を反省することが出来ない、そして疑い深く
現われてくる現象にばかり心をとらわれてしまい、心を汚す、
また種を蒔けばすぐに収穫のことばかり考える。誠に気短な者です。

神の心は偉大で、気長なものです。神が人間を創造する時から
今日迄の長い間、神の思いは変わることなく、人間がどれだけ神の心を
汚し傷つけても、神の心はむしろ人間が陽気ぐらしをする為に更に深く、
日に新しく、日に新しく、常に休むことなくご守護下さっているのであります。

人間の身体も前を向いて前に進む様に出来ているのであります。
階段も坂も前を向いて行くらから昇り降りが出来るのであり、
後ろ向きで昇り降りしたら途中で落ちてしまうか、怪我をしてしまいます。

ですから人間は神の心を聞いて、それを生活の中で実行していく以外に
方法はないのです。それ以外に、成神の道はないのであります。

頭で理解しているうちは行動になかなか現れて来ません。
心で理解、得心してこそ素直に行動に移れるのであります。

例えば反省という言葉にしても、頭で理解しているうちは、
その反省の心が行動に表れて来ません。
心で反省することは、即行動に現れてきます。
これが本当の反省の言葉の意味であります。

己は小さく、人は大きく腹を立てずに気は長く、と言うことがありますが、
これが身に付いたら神心です。
人間の心の元である「が」という自分中心の心を先ず意識して我の心を
戒めて通る日々の心が尊くその努力こそが因縁を切る道であります。

 93 心の荷物
 
お道に見える初心の方は、心にいっぱい荷物を持って来るのです。
その心の荷物の捨て所が教会です。

心の荷物とは人間心の積もったものであり、神に適わぬ心なのです。
その荷物を捨てやすいように接してあげるのが、勤務員や補助員さん方の
仕事です。

このように勤務員さんや補助員さんは、先ず初心者に対して
丁度赤子を育てる心になって接することが大切なのです。
乳呑子を育てる母の心とは慈悲の心であり、神の心であります。
その暖かく思いやりの心で接することです。

私達道を長く通って居りますと、元一日をとも忘れてしまいます。
何も知らない初心者に手をとり、足とり、かゆい所に手度届く様にな心で
接することが大切なのであります。
そして相手の心の荷物をおろせる様な雰囲気を作ることです。

次に自分の心を低くして通ることが大切です。
低い心とは、神の心、つまり水心のことであります。
水も高いところから低い床へと流れる様に、低い心と思いやりの心で
接することに依って、心の荷物をおろす心になるものです。

こんな時、理を責め道具にしてしまいますと、その方は二度と教会へは
足を運ぶ心が薄れてしまいます。
理諭しは、相手の心が楽になった時、お話をすれば良いのです。
すべてのものの現れは、皆その人のその人の心の味次第なのですから、
理を責め道具にしないことが最も大切なのであります。

心の荷物を降ろしたくなる様な人にならなければなりません。
それは神の心以外にありません。
乳呑子を育てる心でつとめさせて頂だきましょう。


 94 言うは易し

 私の娘は現在高校1年です。そして私の家では家族の食事が
いつもバラバラです。
朝は娘も倅も女房も朝食をとりません。私1人だけです。
夜は帰宅時間がまちまちで、夕食も一緒にすることが少ないのです。

たまたま先日娘と一緒に帰宅となり、夕食を共にしました。
その時の姿を見て驚きました。娘は茶碗を持たずにご飯を食べて
いたのです。しかもテレビを見ながら右肘をテーブルに乗せてです。

余りのだらしなさに思わず注意してしまいました。
すると娘がプーっと膨れて茶碗を持って食べました。
暫くしてまた娘と食事が一緒になり、その姿を見て呆然としました。
やはり直っていないのです。

そこでその姿を見て反省しました
「見る聞く因縁我にあり、我になき理は映り込ぬ」
と思い出し娘に言いました。

○○ちゃん、お前がお茶碗持たずに食べている姿を見て、
お父さん自身がそういう姿で食事をしていたから、
お前は知らず知らずの中に見よう見まねで真似をしていたんだね。
だからお父さんがもし○○ちゃんみたいな格好で御飯を食べていたら
注意してちょうだい。お互いに格好の良い姿じゃないからね。
お前もお嫁さんに行って、おじいさんやおばあさんがその姿を見て
注意されたら、お前も嫌だろうし、お父さんもお母さんも
なんてしつけたんだろうと笑われてしまうから、
共に治そうねと子供に話しました。

以来子供は茶碗を持って食べている様ですので、
安心すると同時に自分自身も気をつけなければと思います。
言うは易し行うは難しつくづく思い知らされました。


 95 慈悲の心2
 
慈悲の心を育てるにはどうしたら良いか、
又慈悲の心とはどう言う心なのかと申しますと、
先ず思いやりの心を育てることであります。
思いやりの心が強くなると、慈悲の心になるのであります。

その思いやりの心とは、相手の立場になって考え奉仕をすることです。
慈悲の心は神の心でありますから、その心の中は「我」の心がありません。
常にどんな道中であっても、相手の喜びになることだけを考え、
奉仕をする心、これが慈悲の心であります。

例えば知人が交通事故にあって困っている場合には、
常に真身になって相手の困っているところを真剣に考えて、
そのことを一つ一つ実行していくことであります。

自分の都合の良い時にと思い奉仕をするのは、同じ慈悲の心であっても、
神の慈悲の大きさから見ると小さな慈悲の心なのであります。
この小さな慈悲の心が神の心にと育って行くのであります。

大海の水であっても元は一滴の水の集積が大海となるのであります。
この慈悲の心は人間本来、本質的に持っている心であり、
人間の心の中の真の心なのであります。
人間は神の創造された神の子供でありますから、
神の心は人間誰でも持って生まれて来ているのであります。

しかし人間は長い間の生まれ替りに依って、
生きている自分さえ良ければという心ばかり使う様になってしまい、
心がどんどん悪しき種を蒔いてしまって、神よりの本来の心慈悲の心を
中に閉じ込めてしまったのであります。
人間がどんな凶悪犯であっても、心の中には慈悲の心を持っているのですが
蒔たる種が悪すぎて、心が雑草によって汚され、因縁因果に依って
慈悲の心より先に因果が出てしまっただけなのであります。

この慈悲の心に目覚めるためにも、信仰が必要なのであります。

 96 夫婦喧嘩
 
夫婦喧嘩は犬も食わないと良く言われます。
その夫婦喧嘩の元と言うと色々な原因があると思います。

信仰の上から申しますと、お互いの「我」のぶつかり合いが
夫婦の喧嘩となるのです。

人間は神の目から見ると完全ではありません。
その不完全なところは人間の心であります。
その心の使い方が理に適わないからなのであります。
そこに八埃が生まれて来るのです。その心が完全に神の心に適う様なら
夫婦喧嘩はない筈であります。

人間は人と人との間た書きます様に、人は互いに立て合う心が大切なのです、
その心遣いがあれば良いのですが、それより先に「我」が出てしまいます。

自分が思っているように相手が思っていないのです。
そのことに気が付かないから問題になるのです。
そして自分の意思を伝える為に言葉があり、その言葉に依って意思が伝わら
ないとイライラして口が荒くなって終わりには喧嘩となってしまうのです。
腹が立つと言うことは、我が思いの侭にならないから腹が立つのです。

例えば自分の思う事を実現する為に、他の人にその用事を頼んだとした、
しかしその相手が思う様に実行しない、又それを要求する、
だんだんエスカレートして喧嘩となるのです。

この心は高い心です。子は低く高くと教えられていても、
その理の実践が出来ないから喧嘩となってしまうのです。

神は分かった方から治めよと諭されて居ります。
それは理が分かると言うことです。
その分かった理を実行することに依って、喧嘩することがなくなるのですから、
わかった理を実行する以外に方法はありません。

私も悟った方から治めよとの諭しがありますから、治めることは出来ても
共に育つと言うことを願っておりますので、つくづく思い知らされました。

口で言うことは簡単です。言って直るなら良いのですが言えば不足になる、
言わねば分からない、不足にならない様に口で言うことと実行が伴わない限り、
正しく理解されないんだなーとつくづく反省させられました。

昔の人は言うは易し行うは難しと申しますが、本当にその通り実感として
良く分かりました。
今日帰るのが怖い様な気がします。整理してくれたかどうか心配です。
整理出来ていなかったら、見る聞く因縁の理を家族共々理解出来る様、
実行と手段を考えたいと思います。


 97 甘露水を頂ける皆様へ
 
日々ありがとうございます。皆さんは、これから尊い天の宝甘露水を
戴かれる為に初お席、別お席を学ばれることになります。
なぜ甘露水を戴く為に初お席、別お席を学ばねばならないのかと申しますと、
人間の心が余りにも汚れ過ぎているからであります。

その心をきれいな心にして潤いの心になる様に学んで頂くのであります。
潤いの心とは、嬉し涙を流した時の心であります。

例えば苦労して入学試験に合格した時の心、この喜びを両親兄弟そのほかの人にも
分かち与えたい心が潤いの心であります。
この心はあたたかく、柔らかく、しっとりとした心であります。

天の宝甘露水とは、神種とも申しますように、親神の心なのであります。
心の田地が潤いの心なら、神種もすぐと芽が出るのでありますが、
その心が固かったり、氷の様に冷たい心であったなら、
神種もなかなか芽が出にくいのであります。

神種の芽が出たなら、この世の中は薔薇色の世界であることに気がつき、
人に対し思いやりの心、優しい心、慈悲の心となり、人間生き乍らにして、
生神の様な人になり、人から尊敬され、親しまれ、人の好く人、神も好くと言う様に
なれるのであります。

この心が神の心なのであります、皆さんはこの心になる為に甘露水を
戴かれるのでありますから、しっかり心が豊かになる様に学ばせて頂きましょう。

神の教えは学問ではありません。心の勉強でありますから、
神の教えを頭で勉強してしまいますと一つも身につきません。
ですから、教義を学んでもそれを生活の他と考える人は
無駄になってしまいます。

神の教えは素直に聞いて一つ一つ家庭や社会の中で実行してこそ、
一つ一つ身につくのであります。

神の教えは優しいのです。誰が聞いても成程成程の理でありますから、
しっかり聞かして頂いて、不足に思ったり不満に思ったりしていますと心が汚れます。
どうかみなさん潤いを心になる様しっかり学んで下さい。

 98 お授けの理
 
おみちの中で甘露水を頂きますと、扇を使用してお授けの理が許されます。


このおさずけの理と申しますと、人を助けると言うその人その人の真心からの
おさずけが最も大切であります。


その効能の理も又お授けする人の心通りなのであります。
ですからお授けの効能の理と言うのは一名一人皆心の味に依って異なるのであります。

相手のいたみ、苦しみ、悩みをおたすけ人が見たり聞いたりして、相手のいたみ苦しみを
どれだけ強く、深く察することができ、そしてどれだけ真実の心でお授けを取り次ぎさして
頂くことが出来るかに依って異なるのです。

例えば、足のいたい人におさずけをさせて頂く場合、足のいたいのは相手本人です。
そのいたむ足のことを聞いて、自分ならその位我慢するのにと思っておさずけを
させて頂く人と、相手のいたみを我身や我子に置きかえて、自分だったら或いは我子の足で
あったらと深く相手のいたみを察して、真剣に願う心で取次ぎするおさづけの効能の理は
天地の違い程の差が出来てしまうのであります。


いたいのは本人でおさずけする人はその人のいたみを どれだけ察することが
出来るかに依って効能の理が 違って来るのです。

又甘露水を頂いた人がおさずけを頂く場合には、神の心と人間の心の思い違いが
身上事情の元である事を皆知っている筈でありますから、おさずけを頂いても
鮮やかでない時、自分の心をよく洗ってみましょう。

 99 慢心
 
慢心とは心がおごり高くなることであります。

人間は環境に順応しやすい動物であると言われます。
例えば20万の生活で暮らしていたものが、50万の給与をとる様になると
1年も経たずになれてしまい、1年前の生活苦を忘れてしまい、あたかもずっと以前から
高給取りであった様になってしまうのではないでしょうか。

大切なことは元一日と言う事を忘れないことであります。
元一日を生涯忘れずに 与えられた環境の中で感謝をして生きることなのであります。

心が高ぶってしまいますと 感謝の心が湧かず不足不満になってしまいます。
そうなってしまいますと上の方ばかり見えて、自分の家庭や地位、立場がみすぼらしく
見えて感謝の心等、 みじんも湧かず心はどんどん貧しくなるばかりであります。

又すべてにこれで良い、もういいやと思う心も慢心でありその心は
既に後退しているのであります。


親神は日に新しく日に新しく、休まずたゆまず前進又 前進であります。
人間も神の思いに依って創造され、 生かさせて頂いているのでありますから
前へ前へと歩く様に出来ているのであります。

例えば100 M を走るのにも前向で走った方が早いのです。
階段でも後向に降りたら落ちてしまいます。従ってこれで良いと思う心は
そこで停止の状態でありそれは後退なのです。
そしてそれも慢心の心であります。

100 甘露水

甘露水とは、別名、天の宝、寿命薬、天のぢきもつ、月日教祖の御分霊、
神種子とも申しまして、無味、無臭、無形であると言われております

では甘露水の内容とは何かと申しますと一口で申しますならば「神の心」であります。

人間の方から見ると「神の心」を頂くと言うことは、この上なき宝物であります。

ですから天の宝とも言うのであります。また寿命薬と申しますのは、
神の心が人間の心の中に芽を出し一つ一つ神の心を実行することに依って、
人間の寿命が伸びて行くところから寿命薬とも言うのです。

又天のぢきもつと申しますのは、自由用十則の中に五つ人
「人は五穀の味とるも神は心の味をとる」と申されます様に「神の心」は
人間の心の中の「真心」「神に適う心」「良心」の味をとると申されます様に、
人間心に与える「神の心」なのであります。

月日教祖の御分霊と申しますのは、人体と魂の産み親神の心、つまり「神の心」、
つまり神の思いを分ける、分け与えると言うところから御分霊と申すのであります。

又神種子と申しますのは「親が神なら子も神に」と言う神の心を名実共になしうる多面に
「神の心」を人間子供達に与え、「神の心」の芽が出たならば人間は人に対して優しさや、
思いやりの心や、公平、愛等と言う様に、人間の言葉の中では表現出来ない程、
深く、広く、大きくなる、それが神の心なのであります。

ですから色々と名はあってもそれぞれ皆「神の心」が含まれて居るのです。
甘露水とは「神の心」なのであります。


心の話目次へ