心の話【S先生の日記】


心の話目次へ

81 節から芽が出る


おさしずの中に、大きな節なら大きな心据えると言う言葉があります。

この節と申しますと、人生の中で色々な苦難や大きな病気等であります。
親神は節から芽が出るとお知らせ下さって居りますが、この節と申しますのは
人間心の一つの果しの事であります。

例えば身上で申しますと、胃の手術をする、又心臓の手術をする等は
人生に於いて大きな節であります。
この節を台として、心の眼を開き、今迄の心使いの悪しきを反省し、
その反対の心を、例えば胃の病で手術をする前は食べ物に不足をしていたら、
その心使いを捨てて感謝して、なんでも喜んで食べさせて頂だく様に
心を立て替える事であります。

この心の立替えは胃の病を通して不足の心を悟り、その反対に
感謝の心を育てて行く、これが出来れば一つの大きな節を生かして、
神の芽が芽生えさせることが出来たことになります。

この様に小さな節でも、また、大きな節なら尚更のこと、
心を開いて神の心と人間心の違いを悟ることが大切であり、その人間心を
神心に立て替えることが、節から芽が出ると言うことであります。

この立替えた神芽の心を育てることに依って、だんだんと大きな木となり、
やがて花が咲き、実が成るのであります。

ところが人間は「が」の心が強い為に、素直に自分の心使いを反省し
その反省したことを実行するのが難しくなってしまい、追には節から芽が出る
どころか、その節を生かすことが出来ずに死節としてしまいます。
その死節からは不足の心の因縁の芽より他に出ないのであります。

例えば風邪をこじらせて肺炎となって入院して、医者や薬のおかげで全快しても、
心の反省やその反省の心の行動がなかったなら、一つも節から芽が出ず、
今迄と同じ心使いですから、又何時か風邪で肺炎を越してしまうのであります。
これは一つの節目を生かすことの出来ない、死節となってしまったのであります。

神は人間に対し、身上事情は道の花とといて下さっておりますのも、
人間可愛い一条から、人間の心違い、つまり思いの違いを諭して下さって
いるのでありますから、人間は小さなことでも油断なく、何時も心を意識して
真剣に生きることが大切であります。

その中で、何時もと少し様子の違うことが出来たら、自分の心を良く洗って
反省して心を立替え実行することが最も大切です。
これが、節から芽が出ると言う事であります。

 

 82 怒る叱る
 
人間であれば一度や二度は怒った事の経験があると思います。
この怒るという現象は一つだと思いますが、その心の元には二つの心が
あると思います。

まず一つの心は何かと申しますと、感情で怒る場合であります。
この心は神の教えから見ると八埃の心を言う人間心であります。

その八つの埃心に共通する自己中心の心、つまり俺が我がの「が」の心から
感情と言う心の高ぶりに依って起こる、例えば不平不満の心が高じた時、
又自分の欠点をつかれ、素直に受ける事が出来ない時、欲望が満たされない時等、
色々な現象に依って心の高ぶりが爆発した時に怒ってしまいます。

又もう一つは、愛情にて怒る場合があると思いますが、これは怒るというよりも、
叱る又は注意の方が言葉としては適切だと思います。

この愛情で叱る場合は、非常に難しく、ともすると愛情のつもりが、
感情に変わってしまう場合があるからです。
愛情で叱った事が相手の方に感情を高ぶらせてしまうのは、
自分は愛情のつもりが、相手の方が感情的になってしまう。
つまり普段から相手の方との心の絆が、細いからであります。

常に相手に真心が通じていて、自分自身の言動が一致していないと、
愛情での叱りが感情となって相手に入ってしまうのであります。

愛情の叱り方には、常に冷静で相手を見ながら道理を解かねばなりません。
ここに「が」の心があったら、愛情の叱り方ではありません。

愛情と感情は紙一重の厚さです。そこに「が」の心があるかないかで、
自分の心が愛情と感情に分かれてしまうのであります。

その受ける方から見ても、常に心が通じていれば愛情として受けられ、
素直に受けることが出来る筈であります。

こんな例えがあります。ある社長の誕生日に、新入社員の成績の良い人が一人と、
他に優秀社員が何名か表彰されることになり、その席上にのぞんだ、
新入社員が表彰式の席上で、その社長から怒られたのです。
理由は気をつけの姿勢が悪い、指先を伸ばしてズボンの横筋に中指をつけろとの事
だったそうです。

伜が言うのには、彼はあの事で一生、気をつけの姿勢の時は、気をつけるだろうと
言うのです。
後でその青年に聞いて驚いたのですが、本人が不平を言うかと思ったら、
逆に感謝しているのです。
この話を聞いた時、社長の心が常々社員に伝わり、又社員も社長の心が普段から
わかって居り、その後の社長の思いやりが素晴らしく、社長から目をかけられ
育てられる人が出世をしている現実を、見ているからだそうです。

この話を聞いて、私も驚きました。愛情で叱ることの難しさ、
感情で叱ることはあっても愛、情で叱ることはなかなか出来るものではない。
自分では愛情のつもりが、感情で受け取られてしまう現実に、普段の心の絆が
どれほど大切かつくづく思い知らされました。

 83 ほしいと言う心


八埃の中の昨日一番の埃心として、ほしいと思う心を
親神は戒められております。

人間である以上この心使いのない人は、一人も居ないと言っても
過言ではありません。

何故に慾しい心がイの一番かと申しますと、人間には五感がありますが、
その中で最も大切な目に依って、心を汚すことが多いからであります。

ですから国床立之命様のお嫌いな心使いとして、戒められているのであります。

勿論人の話を聞いてほしいと思うこともありますが、
人から聞いた話と、自分の目で確認して欲しいと思わなくなることもある様に
目で色や形や大きさに依って、欲しいと思う心が最も多いからであります。

人間は神の守護に依って生かされているのでありますから、
神にに対し感謝の心と懺悔の心しかない筈でありますが、見たり聞いたりして
ほしいと思う心、これが既に理違いであります。

ほしいと思う心と、慾の心とは良く似て居りますが、
ほしいと思う心の方が罪が軽いと思います。

例えば腕時計一つにしても、全く持っていない時ほしいと思う心使いと、
二つも三つも持っていながら、更に高級品をほしがる心が慾の心であります。

この様に良く似ていても、心の在り方は随分と違うものであります。
ほしいと思う心が変じてくると、慾の心になって来るのであります。

人間がある以上、神には成り切れるものではありませんので、
多少のことは神は方便として許されるのではないかと思いますが、
厳密に言ったら、理違い、埃心なのであります。

この心が湧いた時には、胸の神に懺悔すれば良いのですが、
なかなか埃心がとれるものではありません。
その努力の過程が尊いのだと思います。


 84 惜しい心
 
八つの埃の心使いの中に、惜しいと言う埃心を親神は戒めておられます。

人間誰でも惜しいと思うことは、一生の内には何度かあると思います。
この心の元は我が身可愛い、又執着心や「が」の心が元であります。

例えば、出し惜しみ、これは物やお金など、出さねばならぬものでも
そのものや金に執着して、なかなか出さない心、身惜しみ、骨惜しみ、
これは我身可愛い心から、人のいないところで怠けたり、仮病を使って
休んだりする心、又人のために費やす時間を惜しむ心、難渋している人に
施すものを惜しむ心、借りたものを返すことに執着する心、横着する心も
惜しいという心使いであります。

親神は思い切る理が因縁切る理、とも諭されております様に、
惜しいと言う心は反対の心ですから(執着の心)やはり因縁を積むことに
なるのであります。

ものの始めは出す理が入る理です。
入ったものに執着心は出さないのですから、入らないのが道理です。

例えば手にいっぱいの荷物を持っていたら、そこに宝物を授けられても
荷物を放さない限り取れないのと同じ、惜しいという執着心は、
入って来るものが少ないから、執着心が余分に強くなるのでありますから、
先ずその心を捨てることと、自分の癖性分を良く自覚して心に刻んでおくことが
大切です。

総じて出すこと、働くことに惜しいと言う心が湧いたら、
その心は因縁を作る心ですから、気が付いた時には、胸の神様に懺悔して
心を汚さぬことです。

 85 色情因縁
 
この世の中には男性と女性しかおりません。
そして男性女性どちらにしても、色情因縁のない人は一人もいないと言っても
過言ではないと思います。

道理が分かっていても、色情で心を汚さぬ人は少ないと思います。
何故なら親神の人間に対する心というのは、子々孫々栄え、陽気ぐらしが
人間創造の目的であったからであります。

ですから色情のない者は、一人もいないと言っても過言はないのであります。

人間何が不幸かと言ったら、子供が授からない程寂しいことはないと思います。
どんなに財産に恵まれ、お金が山ほどあっても、後とりが居なければ寂しいこと
だと思います。

人間何が幸福かと言ったら、夫婦共健康で子供に恵まれ、夫婦の営みほど
楽しみなことはないと思います。
その道具も親神は大切な道具であるから、一の道具として股蔵にしまってあるのです。

しかし人間の楽しみだからこそ、使い方を間違えてしまいますと、
因縁を作ってしまうのであります。
色情因縁は命取りとなってしまいます。
生命力を生み出す道具の使い方を過るからであります。

例えば色情因縁の元と申しますと、妻のある男性が他の女性に思いをかける、
また思いを寄せる。この心そのものが色情の埃心であります。
他の男或いは、女に心を移すことが埃心ですから余程、自分で注意していても
心が移ってしまいます。

まして、それが形になって現われてしまったら大変です。
心のうちなら胸の神様に懺悔すれば埃心はとれますが、形に現われてしまったら
取り返しがつきませんので注意しましょう。

 86 不足心は切る理、足納(たんのう)はつなぐ理
 
不足申しますのは、見ること聞くことすべてに於て、「我」の心
つまり自分を中心にして考えることが不足です。

勿論、成程成程と得心出来るのは不足になりません。
自分を中心にして、自分なら、自分の考え方がと思う心は埃であり、
不足心であります。

何時でも、何処でも相手より自分の方がと思う心、又見下げる心は不足心です。
この心はすべて自分から相手を切っていってしまいますので、
不足は切る理となるのであります。

例えば相手の思いやりや真実の心を伝えても、自分を中心にして考え
「が」の心が強いと、その心がだんだん相手の心に伝わり、周りの人は
あの人は付き合い憎いと言う様になって、だんだん友達も少なくなって、
皆相手の方から切られていってしまいます。

それは自分がいつも正しく高い心でいるから、その心の現れが形として、
人と人との繋がりが切れていくのであります。

その反対の心、つまり足納(たんのう)の心は繋ぐ理であります。
足納の心とは不足に思う心を、見る聞く因縁我にあり、我になき理は映り来ぬ、
と言うお諭しを実践することです。

不足に思う心を理で補って、十分と言う理に依って流すことなのであります。

例えば、陰口や悪口を言われて腹を立てるのは、足納ではありません。
陰口や悪口を言われたら、自分も悪口や陰口が言ってある、その種が蒔いてあった。
その種が芽生えて来たのですね。神様ありがとうございます。と神に感謝し、
相手の方に心から御注意頂いてありがとうございます。今後十分注意します。
この心が相手に通じれば、切ることが繋がっていくのであります。

 87 念仏婆さん
 
念仏婆さんという咄があります。何時でも何処でも、南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏と念仏を唱える。
お婆さんお茶でも飲んで行きませんかと声をかけると、ありがとうございます。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言う。

この婆さんが野良仕事に出ている時、急に雷が鳴り出しました。
お婆さんは思わず念仏を唱えました。しかし婆さんはなくなりました。

魔闇大王の所に呼び出されたお婆さんは、お前は生前何をしてきららたかと問われ、
お婆さんは、私は念仏婆さんと呼ばれて居りまし、と答えた。

大王はその婆さんの箱を見て、嘘をつけ、お前は念仏婆さんと呼ばれていた
と言ったが、お前は嘘つきだ、お前は生涯に一度しか念仏を唱えていなかった
じゃないかと、箱の中から一枚の紙を取り出しました。

この様にすべてに於いて、本当の元が分って感謝したり又懺悔をしたり、
心からの感謝、心からの懺悔でなければ神は受け取ることが出来ません。

只、ロボットの様に口でテープを流している様に心が籠っていなければ、
どんなに名号や懺悔、又感謝しても念仏婆さんのように、空念仏となって
しまうのであります。

言葉は心と心をつなぐ道具ですから、心をこめた言葉でなければ
神も人も受取ることは出来ないのであります。

人と人との会話、懺悔の心、お詫びの言葉、感謝の言葉、名号奉唱、教訓、
信条奉唱等すべてその元を知って、それを良く理解して唱えることが
大切なのであります。

私達の生活の中にも、空念仏を唱える様な、心のこもらぬ言葉が多いと思います。
私自身もこれから気を付けて通らせて頂だきたいと思います。

 88 慈悲の心
 
子育てをしたことのあるお母さん方なら、誰でも経験したことであります。

乳呑子を育てる母の心は慈悲の心以外にはないのであります。
慈悲の心とは思いやりの心です。思いやりの心とは、子供の身になって考える
ことであります。

親神は子育て中には無理せんでえーで、と申されてありますが、
子供を育てると言う事は、神の子供を育てる神の代理人であるからです。

その母の子供に対するする心と言うのは、慈悲以外にないのです。

仏教の慈母観音、キリスト教の聖母マリアも神や仏の子を育てていく母の心を
教えているのだと思います。
この心の中には自我心などないのだと思います。

母が子を思う心こそ、神の心なのであります。
例えば赤ちゃんが泣き出したとする、勿論赤ん坊は口をきく訳ではありませんから、
母親が子供の心を一心に思いやり、どうしてこの子供が泣き出したのであろうか、
お腹が空いたのであろうか、おしめが濡れて気持ちが悪いのだろうか、
又風邪でもひいてしまったのだろうかと、常に子供の立場にたって考え、
一つ一つ実行して行く、この心が尊いのであります。

その子育てと言う元一日の心を、段々と忘れてしまってはいないでしょうか?

自由用十則の中に真実の慈悲で人を導くならば、神との縁を繋ぐ
とお教え下さってありますが、真実の慈悲とは神の心であり、
人間は生まれ乍らにして神の子供でありますから、人間が本質的に
持って生まれている真実の心、真心からの相手の心を思いやる心こそ
慈悲の心であります。
慈悲の心とは乳呑子を育てる心、母の心であります。

 89 共稼ぎ
 
 世は正に共稼ぎ時代である。隣近所を見渡しても奥さん方の大半が
パートに出かけている

家に居る奥さんは、乳幼児を抱えた人か年寄りばかりである。

若い奥さんも子放れすると
又パートに出かける様になる。
従って自然と子供は鍵っ子になって、心さびしく家にいるか
、外に飛び出して遊ぶ。
良い遊びも悪い遊びも区別がつかないからだんだん非行に走る。

何がこうさせたのだろうか。
二十年前と現在と家庭の中を比べて見るとどこの家庭でもテ
レビ、ラジオカセット、
冷蔵庫、掃除機、洗濯機、ステレオ等。たいがいの家庭にはある
と思います。

冬等寒い時には、目がさめると、ストーブがタイマーに依ってついている。
御飯は寝てい
る間にたけている。
自動食器洗いから乾燥機と全く文明は発達し、電化製品全盛。家の中は
電化製品が
所狭しと置いてある。
人間がくつろぐ部屋が家具や電化製品の為におしつぶさ
れそうで、
人間の方が器具に遠慮しなければならない。

昔は風呂も薪をもやし、ごはんも
薪やわら、洗濯もタライで手で洗って
いたものです。

それから比べると今の主婦の仕事は半分以下の労力ですんで いるのでは
ないでしょうか。


その余剰労力をすぐ外に向けてパートに出るか、家の中にいて金妻シリーズ等
テレビドラ
マでうつつをぬかす。
子供が先生に叱られたら、目くじらを立てて学校にどなりこむ主婦。


全く文明に追いかけられて逃げ場所もなく、余剰労力の使いどころに
困っているのではな
いでしょうか。

文明が発達しすぎて、人間はその文明の利益に追いかけられて、人間本来の
家庭生活を見失っ
ているのではないでしょうか。

人間が文明の利益を考え出したのは、文明の利益を使って
豊かな人間生活が
出来る様に考え出されたものであります。
その基本を見失ってしまうと
、文明の利益のために苦しんでしまうことになります。
テレビ、冷蔵庫、自動車の月賦の
ために苦しむ。
又それを維持する為に又苦しんでしまいます。

親神は人間の陽気ぐらしを見たい、させたいとの思いより、人間を創造して
下さったのであり
ます。

そして文字や智恵の仕込みをして下さったのでありますから、
人間の智恵に依って作
られた文明の利益に、人間が振り廻されて苦しむのは、
神の心に適わないのであります。

陽気
ぐらしとは、人と人とが互いに立て合い、扶け合い、労り合って、
共に明るい家庭、明るい社会
、明るい国家の運営が神の心なのであり、
人間がやらなければならない使命なのでありま
す。

あたたかい家庭、明るい家庭こそが人間の幸福な道なのであります。
物やお金、名誉、地
位、財産を沢山もっていても、心が貧しかったら
幸福感はないのであります。

親神は一日生涯とも諭して下さって居ります。
一日生涯とは今日一日一日を大切に悔いを残さない様、しっかり生きなさい
と言うことだ
と思います。

神は男には男の働き、女には女の働き易い様に、この身体を貸し与えて
下さっているのです


男の働きは月々の働き、女の働きは日々の働きであります。
ですから男の月に一回の月
給に依って女は11日と 家計をやりくりして
感謝して通らせて頂くことであります。

男の
働きによって入る月給がその夫婦、親子の得分なのでありますから
女は又男はそのことを深く心に置かねばならないのです。

しかし現在では男女の区別もつ
きにくい様に、それぞれの働き、役目、
役割の基本を見失ってしまっている様です。

自分た
ちの得分に感謝せず、囲りの人、上の人ばかり見て暮らしているから、
欲しい欲しいの心ばか
りになってしまいます。

欲しい心が強くなると、欲の心となります。

それより自分の家庭や基本をしっかり見つめて、感謝の心を忘れては
何にもなりません。

間は空に住んでいるのではなく、この大地に足を踏んばって生かさせて頂いて
いるのであり
ます。
その足元の大地には、もろもろのものが埋もれているのです。
金やダイヤモンドや石
油の元、生活に必要なものはこの大地にあり、
そして育っているのであります。

上見れば
星、欲 欲しの欲しだらけ、下見て暮らせ星の気もなし、
とおさとし下さるのはこのことです。

共稼ぎして多少お金が余分に入ったとしても、心が成人する訳ではありません。
夫婦に与え
られた得分に依って、生活出来る様に、神の御守護と因縁の理法
依って出来ているのであ
りますから、先ず足元をしっかり見つめて、
一日生涯の理を忘れずに共にがんばりましょう。


90 先入観

先入観という言葉があります。先に思い込んでしまうことだと思います。

この先入観が理に適っていれば良いのですが、間違った先入感ほど
心を貧しくしてしまうものはありません。

人間は自分を中心にして、五感と智恵に依って判断します。
それはあくまでも自己中心であり、判断の基準は常識や道理でなければ
ない筈であります。

それに依って白、黒、黄色と言う様に色分けしたり、あの人はと言う様に
思い込んでしまいますと、その先入観はなかなか変えることが出来ません。

余程心を開いて一面思考から多面思考で見る、そして人間である以上、
自分の心に、人の良き処を見る様に言い聞かせて努力、実行しない限り

余程のことがない限り変えることは難しい様です。

例えば、あの人はこう言う人だから、口のきき方に気をつけれなければ
と思い込んでる人、その思い込んだものを消して、新しくその人の良い面を
心の中に入れようとしても、その先入感がなかなか取れません。


それは口で言うのは簡単ですが、心にそのことを耐えず言い聞かせて
努力実行しない限り変わらないのであります。
人を変えるのではなく、自分を変えなければならないからです

自分を変えるということは、心を変えるということであります。
心が変わることに依って
相手の人に対する自分の見方が
変わってくるのであります。

相手そのものは、なかなか変わるものではありません。
相手が変わるのは、自分の真心が相手に通ずることに依って、だんだんと
変わって来るのです。

相手を見て又聞いて、不足に思うことは皆自分の心が高いからであります。
自分の心を低くして相手を立てる努力をして実行することに依って、
先入観が変わってくるものであります。


心の話目次へ