梅の木通信
心の話【S先生の日記】
71 うちの子に限って…そんな… |
うちの子に限ってそんな筈はない、 うちの子に限ってそんなことは絶対ありません。 よくこんな会話を聞く事があります。親の方から見ると 家の内の子供の姿がすべてであり、その姿が真実だと思っている。 子供達の世界は親の世界と別世界があるのです。 ですから家庭の延長が子供の世界とばかりとは限らない、現実との差が こんな言葉として出て来るのであります。 親の方では当たり前と思っていても、子供の方は当たり前と思えない、 むしろ苦痛に思っている事もある筈です。 その反動が子供の世界や家庭以外のところで、親の思わぬ方向に出てしまう。 親の方は当たり前で、家庭の中の子供の姿しか一面思考で見ていないから、 想像外の子供の姿に呆然としてしまう。 では何故に家の子に限ってと言う言葉が出るのでしょうか・・・と考えて見ると、 先ず親の方に思いやり、つまり子供の立場になって考えたり、行動したり することが足りないからではないでしょうか、 又、親は当然と思う行いや言葉が、子供に理解されないこの矛盾から、 家の子に限って、との言葉に出るのであります。 そこで大切な事は、親が自分達の言葉使いや行いを反省することであります。 そして、子供の立場になって考えて見る事であります。 親神は15才迄は親の心通りの守護を聞かし、と仰せられているのであります。 15才迄の子供の心使い、行い、言葉、親が知らず知らずに使っている心や 言葉使いや行いに依って、子供がそのレールの上を走っているのであります。 ですから、子供の立場になって反省し実行することが大切です。 |
72 親に考は天に考 |
世の諺の中に、『親に孝は天に孝』と言う言葉があります。 |
73 願かけ |
最近はあまり耳にする事が少なくなりましたが、 一昔前にはよくこんな事を耳にすることがありました。 妻の病気に、自分の一番好きなお酒やタバコを止めて、 病気が良くなる迄と願をかけた。お陰様で元気になりました。 普段不信心と思える人が、どうして御守護があるのか考えて みたいと思います。 世の中には八百万の神、無量諸仏があり病気に依って願う神も色々あった 事でしょう。例えばとげぬき地蔵、いぼ地蔵と言う様に、病気に依って 世上の人々の話を聞いて、それぞれ神仏に願ったことでしょう。 医者にかかっても一向に良くならない病人や、また不治の病にかかった病人、 病気の人も気の毒ですが、看病する家族の苦労も大変です。 そこで何とか神や仏に願って助けて頂こうとして、病気平癒を願う心になる。 人様から聞いて〇〇のところは御利益があるから言って御覧なさいと すすめられて、神仏に願う、その時自分の一番好きなものを断って祈願をする。 ここで大切な事は好きなものを断つと言う、我身可愛いの心を一つ捨てて、 真実の心に成って願うことであります。 この道は願い通りの道やない、心通りの守護の道と教えられてありますが、 真実の心は神も受け取るのであります。 これと同様に、我身可愛いの心を捨てて、家族の者、身内の者の病気平癒を願う、 その真実の心を神が受け取り御守護が頂けたのであります。 人間真実理に適う心は神が受取るのであります。 ですから昔から願かけの道があったと思います。 |
74 人に勝つより自分に勝て |
人に勝つより自分に勝てと言う歌の文句があります。 人に勝つ弱肉強食の世の中だから、負ければ強いものに 食べられてしまう。だから弱者より強い者の方が良いと 誰しも考える事だと思います。 人に負けたその悔しさを更に努力して人に負けられない、 そして勝った、しかし世の中には上には上があるものです。 人に負けて悔しいと思うなかれ、人に負けて悔しいと思うのは 人間心の「が」の心です。 その悔しさの為に努力するのは相手を苦しめるだけなのであります。 人間は皆神の子供同士でありますから、人に勝つ又は人に勝とうと 言う心は神の思いに適わないのであります。 この心の元は「が」の心であります。 人に勝つより自分に勝つほうが難しい事なのであります。 何故なら人の事は判っても自分の事は見る事も聞く事も出来ない からであります。 人に勝つには相手の欠点をつくのが早いと思われますが、 自分の長所欠点は自分に分からないからであります。 相手の長所を欠点は自分の尺度に合わせて見て比較することが出来ても、 自分の長所欠点はそれを測る尺度を自分自身が見失っているからであります。 自分自身の尺度は神の心を定規として測る以外に方法はないのです。 神の心は絶対であり人間の心の中には人間心と神心の二面があり、 神心を実行する為には、人間心と言う因縁が邪魔をして苦しくなるからです。 自分が自分に勝つ為には信仰を持って因縁を自覚して、神心を大きく伸ばす 以外に方法はありません。 人が人に勝つというのは神の思いに適いません。それより人を責めず理を悟ってと 道理を治めて通る。負けるが勝ちの方が理に適っているのであります。 自分が自分に勝つ為には道理を悟り、理に適う心を養い、実践して 身につけて行くことです。 どんな強い因縁でも理には適いません。その為には一日一善、 人の喜びを自分の喜びとして一日一つでも二つでも人の喜ぶ事に気働きして 実行して行くことであります。 塵も積もれば山となるの例え通りであります。 焦らず、たゆまず実行して行く事が大切であります。 |
75 素直と慈悲 |
人間は生まれ乍らにして神の子供であります。 神の子供でありますから、心の真底には神性心を持って いるのであります。 この心が弱い強いはその人その人の因縁に依って、 その心の表れ方が違うのであります。 その神性心の中には素直な心と慈悲の心が含まれて居ります。 この双方共人間にとって最も大切な事なのであります。 素直とは相手に合わせて通る心であります。おさしずの中に、 いかんと言えば「ハイ」と言え、ならんと言えば「ハイ」と言えと お知らせ頂だいて居ります様に、どんな人にもどんな時でも 「ハイ」「ハイ」と合せて通る本心は強いものです。 何故なら神の後押しがあるからです。 また慈悲の心とは相手の立場になって親身になって相談に乗って あげたり、行動したりするあたたかい心であります。 この二つの心が人間にとって最も大切な心でありますが、 なかなか表に現われ憎い事なのであります。 何故ならば人間は五感を通してものを知る癖がついていて、第 六感と言う心の働きが少ないからであります。 又今日迄の心使いや因縁に依って真性心が心の奥の方に閉ざされて なかなか表に現れにくくなっているのであります。 人間はこんな事を意識しなくても生きられ、努力して苦しむより 楽な道を選んでしまうのが人の世の常であります。 ですからだんだんと素直な心、慈悲の心が奥になって、 人間心を優先になってしまうのであります。 人間心が先に立つと真心すら受ける事が出来ず、 いよいよ心の貧しい人になってしまうのでありますから、 人間にとって先ず素直と言う合せる心と慈悲と言う思いやりの心が 大切なのです。 |
76 無理が通れば |
無理が通れば道理が引込む、という諺があります。 無理とは理がない人間心(八埃)の事であります。 その無理が通れば道理という神の心が引込んでしまう。 例えば世界の二大大国アメリカ合衆国とソビエト連邦共和国 (現:ロシア)があります。 この二大大国の国力や思想が世界を二分していると言っても 過言ではない様です。その二大大国の核実験や核配備などいずれか やめるとも果てなき泥沼状態に入っております。 人数の幸福のみを願う神の心とは、およそかけ放れたところであり、 一つ誤れば人類の滅亡に繋がってしまう大変危険な状態にあります。 神の思いは人間の陽気暮らしが目的であり、陽気ぐらしとは人間同士 和気藹藹と暮らす事であります。 これと二大大国の現況ははるかにかけ離れた思いもよらぬところであります。 元はと言えば神の思いつまり人間が幸せになる為に始めた事なのでしょうが、 現在の両国はお互いに自分の心の影に怯えている様な気がします。 ですから自分の影に自分が怯えているから、ともに泥沼状態に入って しまった様に思います。 こんな状態ですと道理を言う誰もが幸福に暮らしたいと思う心は 無力になってしまい、人間ではどうすることもできない極限状態に 来てしまったのではないかと思います。 このままもっとエスカレートして行けば、神の掃除を待つより 他に方法がありません。 お筆先の中に、しかと聞け 三六二九の幕合いに胸の掃除を神がすると仰せられ、 どんな風に掃除させるのかと言えば、火と水とを入れて分けると教えて 下さっております。 四分六掃除と言われてもおります様に、神がこの世に人間を生み降ろした 子数より遥かに人口が増えて智恵が発達したが、心が貧しくなってしまった 現況を思ても、神の手入れが近い様に思います。 入り込み社である私達はその日が来て、お掃除にかからん様 今からしっかりつとめさせて頂きたいものです。 |
77 身上事情は道の華 |
身上事情は道の華とお教え頂いて居りますが (身上とは病気のことであり、事情とは心配事や悩み事などを申します。) 何故病気や心配事が道の華なのか考えてみたいと思います。 神の世界には身上、事情等ありません。お筆先の中に病というて、既になし、 心違いの道が見えるでと申されてあります様に、身上事情は人間の心の世界に 存在するものであります。 人間の魂という生命力を養って行くのは、心の味次第であり魂と心こそが 人間の本体なのであります。 身上、事情は心の使い方が理に適ない心を使うものですから、 理違いとなりその心の陰が身の上に現われ、病気や心配事となるのであります。 人間にとって病むほど辛いことはありません。 又心配事ほど苦しいものはないのであります。 それなのに身上事情は道の華なのかと申しますと、この言葉は神の言葉であり、 神の慈悲の心なのであります。 神の目から見ると、その人その人の身上事情は、神の心を分かってくれるであろう、 悟って心を立て替えて下さるであろうとの思いがある。 その理によって身上事情は道の華と申されるのであります。 人間の方にとって有りがたいことではありませんが、神の心がわかるなら、 感謝の心で通らせて頂く中にその理違いを悟り、心を立て替えて喜んで通らさせて 頂く事に依って、節から芽が出るの例え通り、身上事情上と言う節を数多く 乗り越えた人ほど、人間がだんだん練れて来るのであります。 木も節を多く乗り越えた大木の方が強く、竹も節の多い程丈夫なのと同じであります。 人間平々凡々と暮らしていたら、世間から来る波風にも耐えることができません。 大きな節を乗り越えてこそ、大木となるのでありますから、 身上事情が表れてきたら大きな心を据えて、焦らずじっくりと本質を見極めて、 感謝と懺悔し、その心を行動に表して恐れずに通らせて頂きましょう。 身体は神からの借り物であります。 |
78 内々治めて世の手本 |
親神は内々治めて世の手本とお諭し下されて居ります。 全くその通り神の教えに万に一つも違いありません。 家族全員が一つ心になりて通る事が出来たら、素晴らしいことであります。 正に世の鏡手本となるでしょう。 しかし言うは易し行うは難し、実行することは容易ではありません。 十人寄れば気は十色と言う様に、家族銘々個人々々の心の味が皆違うのであります。 夫婦二人で一つ心になるのも大変です。 大家族になればなる程、容易ではない様な気が致します。 反面大家族になれば、銘々のわがままが通りにくくなり、協調性が生まれてくるのも 事実であります。 しかし人間は「が」の心を誰でも持っているものであります。 わがままと言う様に我思い通りにならない不足心を持っているのであります。 人という文字が示す様に互いに助け合い、立て合う心に徹することが出来れば、 又良く話し合いをして公平にそして順序良く行うことが出来れば、旨く行く と思いますが、「が」の心が出てしまいなかなか旨くまいりません。 新婚時代の元一日の心を忘れてしまうからだと思います。あばたもえくぼのと 言う様に、すべて良き事として受け止め、お嫁さんの白無垢姿や角隠しの諭しを 忘れなければ良いのですが、互いに慣れ合って来ると、互いに「が」が出て来て しまい心がとけ合うという事が少なくなり、離婚する様になってしまいます。 現在の人間は頭が良いが、心が貧しくなって来ているのではないのでしょうか、 頭で理解出来ていても、身体が知らない心が知らない、従って頭だけ何でも 消化しようとする。それだけ心が貧しくなっているのであります。 内々を治める為には、互いに「が」の心を捨てて、互いに立て合う事が大切です。 そうでなくても内々には他人と違って甘えや情が先に立ってしまいますから、 結果が難しく成ってしまうのであります。 ですから、家族全員が本音で良く話し合い、どんな事も皆良く理解した上で 行動することが大切であります。 共に立て合うと言う事も妻は夫を、夫は妻をと言う様に互いに感謝して通れる様に ならなければなりません。 例えば御主人がゴルフに行く、麻雀で遅くなる等、御主人も我身可愛いの 心ばかりでは家族の者に不足を与えてしまいますから、良く話し合いをして 互いに納得の上でやらなければ、必ず不足の芽が出てしまいます。 家族全員の心を一つにして苦楽を共にする、その為に共に「が」と言う 自分中心の心を捨てて通ることであります。 そうして一面思考、つまり現れてくる現象に心をとらわれず、せめて二面思考 その現象の本質を見守って不足しないで、足りないところは理で補って、 十分にして消化することが大切です。 これが足納(たんのう)の心であります。 そうなれば家は一つに纏まり治まって参ります。 内々が治まれば世の手本となること間違いありません。 先ず「が」の心を捨てることが第一であります。 |
79 お化粧 |
女の人は日様の思いが強いものですから、あたたかく気働きが出来る筈であります。 お化粧と言う女の本性を隠して化けるより、気働きの出来る本性の方が 美人であると思います。 いくら化粧をして、表面だけ美しく着飾っても心の不美人はすぐにも剥げて 本性が出てしまいます。 馬子にも衣装という言葉がありますが、これは一時的なものであって、 化粧をするものと同じことです。 化粧は身だしなみと言う人もあるかも知れませんが、それも一理あります。 女なら誰しも美しくなりたいと思うのは人情であります。 しかし化粧して美しくなれた様に、心も美しくならなければ、 化けたものは長続きしません。いつかメッキも剥げてしまいます。 女は弱しされど母は強しと言いますが、母の強さもさること乍ら、 乳呑み子を育てる母の心ほど優しくて暖かくて美しいものはありません。 乳呑子は口がきけませんから、初めのうちは子供が泣くと、 お腹が空いたのだろうか、おしめが汚れたのだろうか、風邪をひいたのだろうか、 熱はどうだろうかと親身になって面倒良く子育てをする。その母乳を与えている 姿はどんな人でも、慈母観音の姿の様に美しく気高く感じます。 この姿が日様の思いであり、女の人の本性なのではないでしょうか。 その心に磨きがかかればかかる、程神心になって来るのであります。 そして、母の強さは子供を守ろうと言う、美様の理を持っているのであります。 人間以外の動物でも母が子を守るという母性本能を皆持っているものです。 しかし、人間は他の動物と違って万物の霊長でありますから、智も高く 神の思いも深く受け止め、又神に一番近づくことが出来るのであります。 気働きと言う化粧法を、女の人は本能的に持っているのです。 何故なら日様の思い、美様の思いを一番強く受けているのが女性だからであります。 子育ての中の気働きこそ女の人の本性であり、優しさであります。 子育ても誰教えることなく本能的に女性は持っているのです。 母が乳呑児を育てる心こそ神の思いの姿であり、その心や姿の美しく暖かさこそ 女の本性であります。 独身女性の美しさと違った、理に適った美しさはここにあると思います。 乳呑児を育てる時の心根を忘れず、何時でも赤子に接する時と同じ様に 気働きが出来れば良いと思います。 しかし現実に於て、母は強しの言葉のはき違い、女として子供を生んだ その安心感、女として一人前になったと錯覚して安心感にあぐらをかいて しまっているのではないでしょうか。 こんなことを書いていると女性からゲンコツの雨が降りそうですので、 この辺で筆を置きますが、女の美しさは心からにじみ出る優しさであり、 思いやりの心だと思います。形の美しさにとらわれず心の美人がいいですね。 |
80 逆も又真なり |
逆も又真なりと言うことがあります。 これは一面思考の戒めであります。 現われて来る現象の逆、つまり裏にも真と言う一つの理があると 言うことであります。 例えば御主人が飲んで夜遅く帰ってくる、御主人にも良心がありますから 遅くなって悪いなと思いながら帰って来る、 家に入るなり「今何時だと思っているの」「どこで飲んでいたの」「御飯は」 失継早に罵声と質問の雨、 こうなると御主人の方も売り言葉に買い言葉で夫婦喧嘩となってしまいます。 こんな情景はどこの家庭でも一度くらいあるのではないでしょうか。 こんな時は奥さんの「が」の心、自分中心で考えている場合が多いのでは ないでしょうか。 こんな事を言ったら、この先どうなるか考えるゆとりもなく言ってしまう、 結果は夫婦喧嘩です。 成人できないのは、この繰り返しの結果だと思います。 それより先ず、お父さんお帰りなさい。遅く迄御苦労様でした。 今日は暑かったでしょう。「ハイ」冷たいおしぼりをどうぞと言われたら どうなるでしょう、 「ありがとう」と素直な感謝の言葉が出て来る筈であります。 ビール飲みますか、又はお風呂になさいますかと、思いやりの言葉や動作が あったら夫婦喧嘩どころか「災い転じて福となす」と言う事になり、 ビールはもういいよ、風呂に入って寝るから、お前先に行って休めよと 言う様に優しさには優しい言葉が返るものです。 男にも女にも真性心は神の子供だから皆持っているのです。 その本質的な神性心より、先に人間心が先に成からトラブルとなり、 もつれもつれにてしまうのであります。 こんな思いやりの言葉や動作があったら、御主人の方も外でストレスを 発散するより暖かい家庭に早く帰って来る様になります。 そのストレスを解消する家庭の主婦の仕事は大変です。 大切な事は思いやりと、女としての心の暖かさで御主人の心のストレスを 真剣に聞いて、御主人の心を軽くしてあげる努力が、必要なのであります。 物事皆二つ一つが天の理ですから、奥さんにも一分の理、 御主人の方にも一分の理があります。 逆も又真なりと言う様に、その調和が神の思いに適うのであります。 こうなれば楽しい家庭が出来て素晴らしい子供に恵まれると思います。 すべてのことは心の理により現れて来るのですから、一面思考にならず 相手の立場を思いやって二面思考とその調和を持って社会にも家庭にも のぞみたいものです。 |