梅の木通信
心の話【S先生の日記】


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61 お助けについて
 
おふで先の中に病と言うて既になし、心得違いの道が見えるでと、
お知らせ下さってあります様に、身上、事情の元は皆心使いの
理違いによるものであります。

親神は又おさしずの中に、助けにゃならんが神、助からにゃらならんが精神、
とお知らせ下さって居られます。

そのおたすけについて考えてみますと、相手の見上、事情と申しますのは
理違い、つまり神の思いに適わぬ心使いの積み重ねが、身上、事情になって
心が病んでしまうのです。

その心の病が身に表われてくるのが身上であり、
心配事は事情をとなるのであります。

助ける人の立場から申しますと、神の思いがわからん限りなかなか
難しい事なのであります。

身上、事情は道理を踏み外した心使いの結果であり、
助ける人はその踏み外した道理を自分自身が良く悟り、相手の方に諭して
納得が行きませんと解決出来ません。

原点から話しをしますと、おたすけの原点は、その人その人の真心であります。
人を助けさせて頂こうと思う真実の心、相手の身情が自分の身上として察する心、
この心の真実の理がおたすけの原点です。
この心さえしっかりしていれば、おたすけ人の心はそれで良いのです。

次に必要なのが、相手の心を先ず楽にさせてあげる事であります。
その為には自分が低い心になって、真剣に聞いてやるのではなく、
しん味になって聞かせて頂こうと言う心が大切なのであります。

自分の心が高いと、相手の心も人間心で高いのですから、水が高い所から高い所には
流れないのと同じ事、低い心にいるから相手の人が話しやすいのです。

この二つの事がしっかりしでいたら、今度は相手の人の心と神の心との違いが
事情になっていることを、しっかり諭して上げる事です。

人間は心が汚れすぎていますから、一度や二度ではなかなか治まりません。
素直な人が早いのは、おたすけ人の話を真剣に聞いて、なる程の理が分かり
実行するから救われるのであります。

教理、教義はおたすけの為にも必要であり、又自分の心を育てるためにも
必要となるのであります。

色々と書きましたけれど、要は助け人の心理は
(1)には相手の心を思いやり、真心を持つこと。
(2)には相手の話を低い心で聞かせて頂き、心違いをしっかりと聞き分ける事。
(3)には相手の心が軽くなったら真剣に理違いを諭して上げる事であります。

後はいつでも真味になって、相手の心を思いやる心で接する事です。
勿論本教では伺いがありますから、お伺いさせて頂く時は真実の心で
つとめさせて頂ければ良いと思います。
いずれに致しましても相手の心を軽くしてあげるが大切なのです。

 62 我欲
 
我慾とは、自分の欲望の心であります。

人間である以上、我慾のない人は一人もいないと言っても
過言ではありません。

我慾の中にも色々とあります。
自分の地位、名誉、権力を慾しがる心、又八埃の中にも慾しいと思う心、
惜しいと思う心、憎いと思う心の中に慾望が元で憎む心、
恨み心の中にも慾から発する恨み心、腹立ち、慾、高慢等、
我慾より生じる心は、皆人間心の我慾であります。

人間である以上持っていない人は一人もありませんが、みちを通る人は
それを願ってはいけません。

幸福になりたいと思う心は我慾かどうかと申しますと、
我慾には入りません。

これは神の思いつまり陽気遊山が見たい、させたいと言う神の望みであり、
人間が幸福になりたいと純粋に思う心は、理に適っているからであります。

しかし理に適っているからと言って人を騙したり、人を泣かせたり、
又人を落し入れたりしても幸福になりたいという心は、人間の我慾の心であります。

これは紙一重の差ですが、天国と地獄の分かれ道であります。
神の世界には我慾はありません。
人の幸福を願う心のみであります。

 63 おつとめの理について
 
おつとめ、別名理振り、又お手振りとも申します様に、
親神の思惑である甘露台世界(陽気ぐらしの世界)現実の為に、
用木の一名一名が心の悪しきを払う成神への教えを深く胸に治め、
その理を形に現わし、その形に真心を込めてつとめさせて頂くのであり、
用木の成神を祈念し、又努力実行させて頂だく事に依って、
完成させて頂くと言う理を、朝と夕につとめさせて頂だくのであります。


朝づとめの理振りについて

今日も一日健康な身体をお貸し下さる親神様に感謝し、
親神の思惑である、甘露台世界実現の為の真の用木として育てて
頂くと言う心構えを神に誓うつとめであります。
この理振りに依って自分の心をの「が」が切れてゆくのであります


夕つとめの理振りについて

今日一日健康と、そして他諸々のご守護に感謝し、今日一日神の子として、
用木としてその本分を全うすることが出来たか否か反省し、
神に適わぬ心使いを反省し、神に懺悔をし、その真心を御受け取り頂ける様、
真心を込めてつとめさせて頂くのであります。


夕つとめの理振りに依って一日の埃心を払って下さるのであります。

 64 不足心を物やお金で満たすのは…

不足心を物やお金で満たすのは、餓鬼道を歩むも同じこと。
先は地獄、人間は神に対し感謝と懺悔以外ないのであります。


 借りもの、貸しものの教理を教えて頂いた道を歩む人は
良くお分かりの事と思います。
人間身の内心一つが我理とお知らせ頂いて居ります様に、
心つまり思う事だけが自由に使えるものであり、他のものは皆神の
貸物であり、人間の方から見れば借りものであります。

神は人間に対し、人間の陽気遊山が見たい故から人間を創造し、
万物を創造、育成して来られたのであります。
これが神の心であり、その為に九億九万年の太古の昔から今日迄、
日にうむことなく、休むことなく、日に新しく、日に新しく生成の業を
繰り返して居るのであります。

神は人間に対し、その思いを実現させる為に万物の霊長としての
理・気・智を授け、人間はその理・気・智に依って、陽気日暮しを
するべき筈であったのですが、人間が成長するに連れて、神の思いが分らず、
我や欲の心の為に、陽気世界を苦の世界にしてしまったのであります。

人間は神に対し、総てに至れり尽せりして下されてある、
総てのものを理・気・智によって使わせて頂だくのでありますから、
感謝以外にないのでありますが、人間心のしぶとさの為に神に懺悔して
二度と人間心を使わない様、努力していく以外に道はないのであります。

この世界は陽気世界に出来ているのでありますが、人間の心の貧しさから
不足の心を持ってしまうのであります。
その不足をの心を満たすために酒を飲んだり、麻雀したり、
また綺麗な着物で着飾ったりします。

それらは皆餓鬼道を歩んでいるのに、気づかないのであります。
この心使いが続いていくと、地獄の道につながっているのです。

不足心を持ったら、神が100億の富を与えても幸福感がないのであります。
むしゃくしゃしたり、心を痛めたり、その心を癒す為に飲んで
忘れよう等と酒を飲む、飲んでいる時は一時忘れても、酔いが覚めると
更に心の傷が深くなっているはずであります。
その為に、又酒を飲んでしまうと更に悪い結果となります。

このまま続けば、地獄行きの片道切符を手にしたのと同じ事です。
人間は総て成って来る理が天の理と受止めて、総て良い方に解して行ければ、
そうしてどんな逆境に身を置いても、一つの不足の心もなく感謝して通れば
成神できるのであります。

その為にも、努力と日々は感謝、そうして神に対し自分以外の人様に対し、
どれだけ真剣に対応出来るかに依って、神への段階が近くなったり、
遠くなったりするのです。

不足心を理で神う様になりたいものです。


 65 願い通りやない、心通りと言う事
 
おみちの中に願い通りの道やない、心通りの道と言う言葉があります。
これはなかなか難しい事であります。

厳密に言うと願うと言う神仏に対し、色々お願いをする、
その願うのも心の働きが言語、動作によって現される筈であります。

この言葉の意味は、願うと言う心だけではだめだと言う事なのであります。
只願っただけで願いが叶ったら、人間働く人がいなくなってしまいます。

例えば宝くじに当たります様にと願う、又大金持ちになります様にと願う。
この願いは「慾」の心でありますが、願った通りになってしまったら人間誰でも
楽をして通りたいと思っているのですから、何でも願う通りとなってしまったら
働く者がいなくなって人間は亡びてしまわねばなりません。
願う心の通りに努力しなければなりません。

例えば先程の宝くじにしても一等が当たります様にと
願っただけではどうにもなりません。
そのためには宝くじを買わなければ、いくら待っても当たりません。
宝くじを買って初めて一等に当たる可能性が出てくるのであります。

神は無理な願いはしてくれるなと仰せられてあります様に、
努力しなくて願っても、願い通りにはならないのであります。

又無理という神の思いに適った心以外の願いは、
初めから間違っているのであります。

ですから無理な願いはしてくれるな、願い通りの道やないで、
と言うことがお判り頂けたと思います。

願わずとも成って来るのが天の理であります。
故心通りと言う事ですが、理と言う神の思いに適わん事を思い、
努力してもなかなか思い通りにはなりません。

神の思いに適った心なら、その心通りに努力をしたら、その通りになって参ります。

神の思いに適わぬ心を使って通るから、身上、事情が出て来るのであります。
心通りの守護とは神の思いに適う心なら、心通りの守護であり、
人間の心通りなら身上、事情であります。

従って心通りと言う事は二通りありますから日々気をつけて通る事が
最も大切な事であります。
 66 基本と応用

 基本と応用という言葉があります。
基本とは字の通り本当の元であり、応用とはそれを元にして
利用するのが応用です。

ですから、総て基本が判らない限り応用は出来ない筈であります。
数字の問題にしても、基本が分からない限り応用問題は解けません。
数学の基本は数字です。数字が読み書き又理解出来ない限り応用問題は
できないのであります。

信仰の世界も同じ事であります。
神の思いが体得出来なければ、本当の信仰は難しくなってしまいます。

言葉一つにしても神の本当の思いがわからない限り、
応用ばかりとなってしまいます。
応用ばかりですから、お互いに本当の思いが伝わらないのです。

ものごとは総て基本が大切、と言うのはこの事なのです。

例えば、おみちの中では、礼拝する時に人指し指を台にして親指を立てて
礼拝する様に教えられて居ります。
何故そうするのかと申しますと、立てるべき立場の人を立てる、つまり目上の人、
親、神という様に立てるべき立場の人を立てて日々通りなさい。
と言う神の教えを形に表して礼拝するのであります。

これが心の基本であり、形の基本は立てるべき人を立てて通ることさえ
出来れば自然が良い筈です。
しかし人間はすぐに忘れてしまいますから、ある形を一つの基本として
心を教えているのですあります。

また歩法についても、右は女であり、左は男の理であるから、男が先と言う、
女の人が男を立てる心の基本を、形に現わして左足から出なさいと教えているのです。
理の上から見れば一面の真でありますが、男の理だけ立てたら、
男が女の人に対する理が欠けてしまいます。

ではどうしたら良いかと言うと調和が一番理に適う、つまり自然が一番良いのです。
自然に右足から出たらそれが自然であり、左足が先に出たらそれが自然で理に適って
いるのです。
神に対し不尊な心なくして歩く、自然の歩法が良い筈であります。
しかし、これでは教えになりませんので、形の基本を左足から出る右足から下りる、
右足で踏み揃えると頂う形がおみちの中の歩法の基本となっている筈です。

何事にも元の理、基本が大切であり、基本なくして応用は難しいのです。
しかし歩法は自然が神の思いですから、自然が基本でみちの中で教えているのが
応用と言う事になるのではないでしょうか。
 67 わがまま
 
家庭の中で良くうちの子はわがままでしょうがない、
と言う様なことを良く聞きます。

わがままとはどういう心なのか申しますと、神に適わぬ人間心であります。

人間である以上誰でも持っているであろう「が」の心であります。
わがままとは我思うままにしようと思う心がわがままです。
子供のうちはわがままも一面に於いては可愛いと思う面もありますが、
大人になっての「が」の心の強い人は鼻持ちならない人となってしまいます。

子供のうちでも、例えばおもちゃや菓子を見て慾しがって泣いている子供を
見かける事もあります。
その子供の心は慾しいと言う心もあるでしょうが、自分の思い通りにならない
その心に対し泣いて思いを遂げようとしているのであります。

親の心と子どもの心の差が、わがままという親から見た言葉となっている
様に思います。
自分の思い通りにしよう、させよう、これがわがままであり、
その心を実現しようとして、泣いたり、わめいたり、座り込んでしまったり
するのだと思います。

こんな時の親は切ないものだと思います。まず周囲の人の目が気になって
しまうのではないでしょうか、これではひとつも解決しません。

大切な事は、親が子供の心と同じ心の高さになって子供に話をするか、
またその物を買って与えるかのどちらかでしょうが、親の都合から見て
買わなくても良いと思う心の現れが、子どもの心の差になって泣きわめきに
なってしまうのです。

こんな時は言葉を省略しないことです。
省略して結論だけ子供に伝えても、子供は納得出来ないのです。
子供に分かる様に順々に諭してあげる事が大切です。
子供は親の思い通りにはならないのです。
 68 10円玉の真心
 
日々ありがとうございます。
今日は10円玉の真心について、気がついた事を書いて見たいと思います。
10円玉の真心というと何だろう?何の事だろう?と思うかもしれませんが、
電話に依って自分の心を伝えることなのです。

人間誰もが行っている事なのです。例えば仕事で予定以上に時間がかかったとすると、
職場や家庭の人達はどうしたのだろうかと心配します。
交通事故を起こしたのだろうか、病気にでもなって倒れてしまっているのだろうかと、
時間が経てば経つほど心配をします。

外出している本人は自分事ですから、遅れた理由も状況も良く知っているのです。
しかし知っているのは本人だけで、その思いは誰にも通じません。

そこで大切なのは、相手の立場になって行動をすることです。
その一番手っ取り早くて正しく伝わるのが電話によって現況報告をすることです。

私は現在〇〇のところに居ります。詳しくは帰ってから報告します。
何時頃帰ります。この事だけでも職場の人も家庭の人も安心するものです。

何時でも相手の立場になって考え、行動してあげると心が通じます。
これが真心です。家族の人や周囲の人に心配をかけないと言う心は親心です。
その心が尊いのであります。

この心つまり外出した時に夜七時を過ぎたなら電話をする習慣として
身についたなら、家族の者も同僚も皆安心します。
それだけでも相手に対し心配の種を無くす事だから尊いのであり
天に通ずる心なのです。


 69 ある晩のこと

私の子供はお陰様で一昨年の四月から、小さなデパートに就職させて頂きました。
1年間K店でお世話に成りましたが、昨年の四月よりI店に転勤になり
現在に至っております。

これは子供の体験を通し、親子の心の貧しさをしみじみ感じ、
親子で良く話し合い、反省し、お互いに今後二度とこんな事の
ない様注意し合う事になった時のお話です。。

それは1本の電話から始まりました。去年の暮れも20日を過ぎたある晩、
元子供がお世話になって居りましたK店の友達から倅に電話がありました。
内容は、伜がお世話になっていた時の伜のお客様が、仙台の方へ転勤になると言う
知らせの連絡でした。

電話を切った後、伜にそのお客様の電話番号を知っているのかと
尋ねましたところ、知らないと言う、住所も知らないと言うのです。

そこで友達が何故お前に電話をくれたのか、相手の心を考えたことが
あるのかと伜に聞きました。伜は知らないと答えました。
私は胸が傷んで来ました。余りの自己中心的な考え方にカッとして言葉を強く、
友達の思いやりの心が分からんのか、とつい言ってしまいました。

ハッと「見る聞く因縁我にあり、我になき理は映り来ぬ」との言葉を思い出し、
自分の心の貧しさが子供に伝わってしまったのだと反省し、目を閉じて神様に
お詫び致しました。
自分も平常心にかえることが出来ましたので伜に冷静に聞く耳があるかと尋ねましたら、
「うん」と返事が返って来ましたので、お父さんが言葉が強すぎたよ。
お前の友達はお前の大切なお客様だったから、お前が知らなかったのでは・・・
とお前の事を思いやって電話してくれたんだよ。
その親切な思いやりの心をお前は裏切ったんだよ。それでは良い友達にはなれないよ。

お前が「お客様の転勤することを聞いたので、年末で忙しくて引っ越しの
お手伝いが出来ませんが、どうぞお元気で行っていらして下さい。」
「又K店の方におい出の節は元気なお姿を見せて下さい。」
と一本そのお客様に電話をかけることに依って、知らせてくれた友達の心を
踏みにじる事もなく、お客様にも真心が通じ、お店の信用にも繋がるんだよ」と、
伜に話してあげました。
伜は「良くわかった、今度そんな時は気をつけるよ、出来れば明日K店に寄って、
電話番号を調べて電話するよ。」と言ってくれ、私は安心しました。

こんな小さな電話一本でも気が付かなかったら友達にも又お客様にも商人として
失格してしまうところだったよ、と話しました。
伜は「うん」と言ってましたが
この電話一本で自分はどれほどわがままで自己中心に世の中を渡って来たのか、
伜の会話でつくづく情なくなってしまいました。

もしこれもそのまま気付かずにいたら伜も私もどんどんと心が貧しくなって行った
ことでしょう。私も反省し伜も一つ思いやりの心とお客様に対する心がわかった
様な気がして、電話一本から心を汚したり、又ほのぼのとした心になりました。


 

70 まごころ

ひょうたんの木甘露台様の沢山の御教の中に
「何事も真心を持ちて進むべし、真心なくば只の人なり」
という御遺訓があります。

人間すべて神の創造された人間でありますから、
神性心と言う、神に適う心を持っているのであります。

信仰を持つ、甘露水を頂いたと言う事は、神の心を学び、実行して
その心を身につけることなのであります。
そしてその真心は天に通ずる心なのであります。

真心とは、真の心つまり神の心、思いなのであります。
ですからどんな時でも、どんな場所でも、どんな人にも
天に通ずる真心(神性心)を持って通る事が大切なのであります。

例えば困っている人の心や、又もので救わせて頂くこうと真実思う心、
自分以外の人が喜ぶ事に奉仕し、その事によって相手の喜びが真実分自身の
喜びと思える心、その為に真剣につとめる心、皆神性心であり、
真心なのであります。

又電車に乗っている時でも、お年寄りに席を譲る、若い人でも荷物を
沢山持っていたら席を変わって上げる、また綱棚に荷物を上げている人がいたら
手を貸してあげる。
この様な事は神性心であり、人間の本真実の心、真心なのであります。

ですから相手の方が、どうもありがとうございますと言う感謝の言葉を
くださるのであります。
ですから、真心を形に表し実行する時は、相手の立場になって、気働きをして
気のついた事を一つ一つ実行して行く事であります。
人に礼を言われなくてもその真心は天に通じ、人の喜ぶ事は神の喜びと
なるのですから、真心程尊いことはないのであります。


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