梅の木通信
心の話【S先生の日記】


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31 結婚

 人間と言うのは神の目から見たら完全ではない、
形を持つものに完全はありえないのであります。

まして人間は万物の霊長として資格を渡してあり、
心一つの使い方の自由の理もわからない、その人間同志が結婚をする…
その事について神は、むずかしい事は一つも言っていないのであります。
 

おさしずに、 「心と心の理が合えば生涯という、そして神は、それはいかん、
これはいかんとは言わん、互い互いの心があれば、思うようになる」
と、お教え頂いてあります。
 

結婚するのは神の思いで、因縁事情に依るものであるから、
神はあれこれ駄目とは言わない…、双方の心が一つになれば、思い通りとなる。
 と、お教えくださるように、人間は足りないもの同志であるから、
その足りない者同志が、お互いに補い合い、助け合いの心があり、
双方心が一つになれば、生涯夫婦として全うできるのであり、
これが神の思いなのであります。
 

しかし人間は、神の思いがわからず、「我と慾」 の心のぶつかり合いに依り、
神の許した夫婦であっても、生涯全うする事が出来ず離婚してしまう結果となるのです。
 

人間は人という字が示す様に互いに立てあい助け合いの心さえ治まってあれば、
離婚等は無いはずです…
 

綾太郎の浪曲にもある通り、
「妻は夫を労わりつ、夫は妻を慕いつつ…」 
この理さえ治まれば生涯の理であります。

ありがとうございます…

 昭和60年12月26日
  

 32 明るい家庭
 
 人間は神の人間に対する思い、つまり陽気ぐらしを見たい、
させたいの心が分かったら、だんだんその家はあたたかい家庭になり
明るい家庭になります。
 

あたたかい家庭は、思いやりのある家庭であり、明るい家庭は陽気な家庭だと思います。 

どんな逆境に立たされても、家族全員の心が常に一つで、親神に感謝して通る家庭こそ、
明るい家庭であると思います。

神の思いは人間の陽気ぐらしを見たい、させたいの心ですから、
理が分かり、理が身についたら陽気ぐらしなのです。
 

明るい家庭こそ、神の思いの家庭であり、理想の家庭なのであります。
その為には、神の理を学ばなければ、本当の理は分かりません。
本当の元の理が分からなければ、本当の感謝も出来ないのです。
 

理を学び、その理を一つ一つ、家庭や職場や社会において実践してこそ、
自分自身の身につくのであり、その実践が少しずつ浸透して、
周りの人々に伝わり、あたたかい家庭、明るい家庭へと変わっていき、
やがて本当によりよい世界となって行くのであります。
 

この明るい家庭こそ、親神の理想の家庭であり、その世界こそ陽気ぐらしの
世界になるのであります。

その為には、「分かった方から治めよ、」のお言葉通り、理の実践が大切なのであります。
人間は五感を通じて物を覚えるのでありますから、精神、言語、動作によって、
その真実が伝わっていくのであります。

理に適った正しい心、正しい言葉、そして、正しい動作によって人々に伝わるのです。 

明るい家庭こそ、神の思いに適った家庭だと思います。

 

ありがとうございます。           昭和60年12月26日

 33 道を通る人の心得
 
 信仰すると言う事は、親の心を学び養い、身につけることであります。
しかし、親の心を養うには、親神の心、つまり元の理を学ばなければなりません。
 
親神は学問に無い世界の話を教えると申されております様に、思いという心の話であり、
親神の心の話であります。
 

その教えを教理、教義として、分かり易く教えて頂くのであります。
道を通る者は先ず心というものの認識が第一でありますが、人間の心と言う物は、
分かっているようで、なかなか分からないものです。人間の心とは、
人間が思うというこの思いが心であります。

この心が分かってから、一つ教義を学び、その理を体験して初めて心で理解できるのであります。

 分かっているようで、分からんという事は、頭で理解しても、
体を通して(体験)心が知らないからであります。
それで、頭で分かっていることでも、体験しなければ心が知らないのが、
分かっている様で、分からないと言う事であります。
 

道を通る人は、この事に十分注意することが大切です。 

そこで、道を通る人について、先輩から次の様な事を聞いた事があります…

間違った事をして、それを注意され、怒るのは馬鹿… 

正しい事をして、それは間違っていると注意されて、
言い訳するのは普通の人…
 

正しい事をして、それは間違っていると注意されて、
すみませんといって謝って通る人が道の人…
 

そう、お教え頂いた様に思います。
誠にその通りであります。 

道を通る人は、人が人を裁くのは、我と高慢であり、人の善悪の裁きは、
人がするのではなく、天が裁くからであります。
 

人間が作った法律は、身体を縛る事は出来ても、心まで縛る事は出来ません。 

神の定めた法則には、一分一厘の狂いが無いのであります。 

道を通る人は、この合わせる心、水心を養う事が大切なのでありますから、
言い訳をしないで、素直に合わせて通る事を、心がけて通らせて頂きましょう。

 

ありがとうございます              昭和60年12月26日

 34 心の貧しい人
 
心の貧しい人とは、俺が我がの「が」と慾の強い人です。

従って、いつも自分を中心に物事を考えたり、行ったりします。 

自分はいつも正しく、自分は何でも出来る…、
あの人は駄目だ、あれは見せかけだけだ…、と言うように、
何時も自分の定規で人を測る人が、心の貧しい人です。
 

人が楽しんでいるのに、素直に喜べず批判したり、人の楽しみをこわしたり、
又、人を泣かせたり苦しめたりする人、こういう人も心の貧しい人であります。

こういう人は、親神の心の分からぬ人であります。 

頭の良さと、心の豊かな人とは同じではありません。
学問があるより、心の豊かな人の方が、神の心に適うのです。
無論学問は無いより、ある方が良いには決まっております。
 

心の貧しい人が、心が豊かになる為には、どうしたら良いかというと、
頭と心の区別がつかないとなかなか難しいようですが、
人の話を良く効くことも大切な要因です。
 

人の話の途中で、いろいろ考えず、
素直に聞かして頂くと言う心が、大切であります。
 

人間は言葉によって、心と心をつなぐ事が非常に多いからです…。
ですから、終わりまで聞く事が大切なのです。
 

この事が一つ出来る様になっただけでも、素直になれます。 

又、小さな善意を積み重ねる事も、大切な事です。小さな親切、
これも思いやりの心ですから、小川の水のように何時までも枯れる事無く、
たんたんと行う事です。
 

その善意を相手が分からんからと言って、口に出してしまいますと、
埃となります。この行いは天に通ずる心なのだと、
自分自身に言い聞かせ、たんたんと積み重ねる事が大切です。

 

ありがとうございます。           昭和60年12月27日

 35 真心は天に通ずる
 
 心の使い方も二通りあります。人間心と神に適う心使いであります。 

ここで言う真心とは、天に適う心であります。
この心の中には我慾の心がありません…。
ですから天に通じる心なのであります。天に通ズる心ですから、
人間どんな心の貧しい人でも、どんな人でも通ずる物であります。
 

しかし、人間の心は、汚れている為、なかなか通じない時もあります。
ですから、その心を繰り返し、繰り返し、実行して行きますと、
何時か必ず通じます。それが、真心であります。
 

例えば電車の中で、お年寄りの方に 「どうぞ、お掛け下さい…」
と席を譲ってあげる、相手の方は「どうもありがとう…」
この心が真心であります。

この心が相手の方に通じたから、相手の方が感謝の言葉を返して下さったのです。
この時、お金を請求したり、又、言葉で私が席を譲ってやった…
等と言うようでは、真心とはいえません。

真心は天に通ずる心ですから、相手の立場を思いやる心とその行いによって、
天にも人にも通じていくのであります。
 

こういう心味の良い人は、心が豊かな人であり、
心が貧しい人は、自己中心的に物事を考え、言ったり、行ったりします。
その為に何時も争い事が絶えないのであります。
 

賊の貧乏で苦しむより、心の貧乏の方が、立ちなおりが難しいのです。
ですから心を豊かにしなければなりません。
 

心を豊かにする為には、何時でも何処でも、相手の立場になって考えたり、
思いやる心を育てる事であります。
 

自分以外の人の心を喜ばせる事は、天が喜ぶ事でありますから、
心を豊かに育てましょう…。
 

ありがとうございます            昭和601227

 36 苦労
 
『苦労と言う字を幸福と読み…』 歌の文句にありますが、
苦は楽の種であるからだと思います。これも一つの真理です。
 

この世の人間は、陽気世界に住まわせて頂いてるのでありますが、
心一つ使い方の自由の理がわからず苦労するのです。
 

神の世界には苦労と言う文字はありません…、
人間の世界にのみ存在するのであって、苦の娑婆、苦労、苦悩、苦しみ等、
皆人間社会にのみ存在する言葉であります。

若いときの苦労は買ってでもしなさいという言葉がありますが、
若いときは体力もあり勇気もあり、気力もあるから、少しくらいの苦労にへこたれない、
そして苦労は身体を通して心が知るから、その苦労が身につくのです。
ですから若い時の苦労は買ってでもしろと言うのだと思います。
年とってからの苦労は、骨身にこたえるから、こういう言葉が残っているのだと思います。
 

また、苦労の中にも精神的苦労と肉体的苦労とある様です。その苦労の元は、
「がと慾」の心から不足の心を補う為に、苦労と言う言葉が使われるようです。
 

失敗は成功の元、又、苦労は楽の種、という様に困難な事に立ち向かう勇気と、
精神力をつけたいものです。
 

人間は苦労する事によって、心が磨かれていくのです。
ですから苦労人とは、人情に通じた人のことを言うのであります。
 

人間は苦労しなければいけません…。苦労しなければ、
人の悩み苦しみを察する事が出来ないのであります。
 

道を通る人は、心を磨くのですから、神慾の苦労をしなければなりません。
その苦労が身について、成神出来て行くのであります。

 

ありがとうございます             昭和601227

 
 37 嘘と追従について
 
言葉は心と心をつなぐ道具です。その言葉の中に、
親神が注意されている事があります。

それは嘘と追従(おせじ)を戒められているのであります。
 

なぜに嘘と追従がいけないのかと申しますと、嘘と追従の中には
心がこもっていないからであります。
 

嘘とおせじの言葉ばかり使っていますと、どれが本当の真実なのか
見分けが出来なくなり、しまいには心を見失って、
人間として当たり前の事が出来なくなってしまうからであります。
 

嘘も追従も本心とは別のことだから、世の中にこれが万延したら
神の思いと程遠くなり、人間の滅亡につながるからであります。
ですから、親神が戒めておられるのであります。
 

でも、世の中には嘘も方便という事があります。
この場合は神に適う言葉かどうかと言いますと、
一口に良い悪いの区別がつけられません。
 

例えば、お医者さんが患者に対して、あなたは癌にかかって、
あと一ヶ月くらいの寿命です…これが、医者の知識や経験から言って、
正しかったとした場合に言うのは真実ですが、
相手方の心情を考え真実でなく、患者に精神的苦痛を与えない様に、
心配するような病気ではありません○○○ですから余り
御心配はいりませんよと告げた…、

嘘も方便とはこのような事だと思いますが、
この場合の医者の立場で方便が正しいか否かと申しますと、
厳密に親神の心からすれば、やはり嘘はいけないのだと思います。
 

なぜなら、神の世界に病気など無いからであり、病の元は皆、
自分自身の心得違いから起こるからであります。
ですから人間社会に於いてのみ、嘘も方便として許されているのだと思います。

 その心の奥に思いやりの心あるからです。

 

ありがとうございます           昭和601228

 38 嫁と姑
 
最近嫁と姑のいさかいについて余り耳にしなくなりましたが、
依然として嫁と姑の確執は
根絶になった訳ではありません。
何時の時代にも人間である以上、心の貧富がある限り根
絶するものではありません。

しかし最近あまりに耳にすることが少なくなった一つの理由
はテレビ、
ラジオ等に依る情報が豊かになったこともあり、又核家族の家庭が多くなった
事も
大きな要因かと思います。

昔はこの嫁と姑の確執は、もっともっと多くあった様であ
ります。

どうして嫁と姑のいさかいが絶えないのか、女は女同士、男は男同士という
言葉
もあるのにと思いますが、やはり各々の心の差がこういう問題を残していると
思います。

心の高さが同じだから、そして共に心が貧しく「が」の心遣いが多いから、
姑の嫁いびり
が、或いは嫁がやはり「が」の心遣いが多い。だから嫁中心に考える
共に合わせる心がな
い為に問題を起こすのだと思います。

また時代の違いも一つの要因かも知れません。姑の
時代と嫁の時代の差に依って、
姑の考えが追いついていけないと言うこともあると思いま
す。

いづれにしても、心の貧しさが原因なのであります。ではどうしたらこの問題が
解決
するのかというと互いに「私が自分が」という、「が」の心遣いをなくし、
共に思いやり
の心をかけ合い、一つ一つ実行すると良いと思います。

慾の張り合いなら共に慾の心を捨
てれば良いのですが、なかなか旨まくいきません。
親神は分かった方から治めよと教えて
くださっております。

どちらか通理の分かった方が、相手にあわせる心になって実行した

解決できる筈であります。
出来ないのは実行の心が理に適ないからです。例えば姑が嫁
を神様のように扱ったら、
その真心は天にも必ず通ずる心ですから、相手の嫁にも必ず通
じます。

その真心が通じたら又、次の問題にも真心を持って実行していく一つ一つ神に仕
える
心になって実行したら、嫁と姑の問題はなくなってしまうのであります。

しかしその
為には、おみちについて、元の理を学び本当の元がわからない限り、
実行出来にくいので
す。

心の理が分かって初めて、得心ができ、実行することにも心から実行できるのです。

人間は五感を通して物を知る事ばかり頼り勝でありますが、信仰をもつと言う事は、
目に
見えぬ神の心を学び、自分自身の目に見えぬ自分の心を養い、実行して心を
育てていくも
のだからです。
人間貸しもの、借りものの理さえ心に治まったらどんなことにも感謝して
通れるはずです。

 39 ざんげ
 
おみちの中に懺悔という言葉があります。

この言葉は仏教から来た言葉でありまして、神や仏に対し、自分の罪過を告げる、
これが懺悔の意味るの一般的解釈かと思います。

おさしずの中にM31-2-27目一夜の間にも懺悔と言う。
一つは受け取ると教えて下さってあります。

神は仏の教えを信じることの出来ない心の貧しい人であっても、神や仏の話を聞いて

自分の過去の罪過を反省の心が出来た、その心の真実の理は、神が受け取ると
仰されているのであります。

又、おさしずの中にM-29-4-4「ざんげだけでは受け取れん、それを運んでこそ懺悔という」
ざんげと言う自分の過去の罪過をお詫びすること、詫びしただけでは神はすべて受け取る
ことはできない本当の懺悔という心の神の思いは、自分の過去の罪過を心から反省し、
その反省の真心を忘れず、今度は神や人の喜ぶ事に心を使い奉仕等する、
それが真のざんげであると教えて下さっているのであります。

口でざんげというのは簡単ですが、それではざんげにはならないのであります。
罪過と言うのは自分だけのものではなく、必ず相手の人が関係しているからであります。

例えば人をナイフ等で傷つけたとする。人間の作った法律によって裁きを受ける、
刑期を終えれば無罪放免となる人間の作った法律と神の掟とは違うのであります。

傷つけた人の心の理と相手の人の心又その家族の心の理、それぞれ心に傷をおったのです。
傷つけた人が神の話を聞いて自分の罪過を反省する、つまり懺悔をする。
しかし懺悔をしただけでは神も人も受け取ることが出来ない真の懺悔とは相手の傷の痛み、
心の痛み、また家族の人の心の痛みを思い、心底から罪の意識をもって、その罪の償いとして、
その真心を神にささげ、相手の人にもその心を伝え行動することによって、
相手の人にも伝わるのであります。これが懺悔ということであります。

 40 心定め

おみちの中で良く心定めしなさい、心定め出来ましたかとうと言う言葉を耳に致します。

心とはころころ変わる心ころころが心と成ったと言う話を聞いたことがあります。
心という思いこれが心ですから、心が変わる、これが心変わりなのです。

例えばバイクを買って乗ってみたいと思う、春になったらバイクでドライブ、
春の新緑と桜の花の下をドライブと楽しいことを夢見てほしいと思うこれが心であり、
それを実現するために、心を定めて努力する。これが心定めということであり、
途中でそれを放棄する、これが心変わりであります。

おみちで言う心定めについて上記のことも一つの心定めですが、神様は心変わらんのが心定め
と言うと言う様に、おさしずに教えて下さってあります。

ですから一つの目標に向かって、心定めたらその目標が達成するまで心が変わらない、
これが心定めであります。

おみちの人によって救けられた私も神の子として人を救けさせて頂こうと心定めしたら、
生涯変わらないのが、入り込み社である我々の心定めであり、使命であります。

しかし元一日を忘れてしまうから心変わりして、おみちから落ちてしまう
これでは心定めにはなりません。

親神は定めるから定まるやない、定めたから定まるのやと、おさしず下さってあります。

心定めするから実現するのではない、心定めしたから、つまり心定めしてそれに向かって
努力するから定まるのであると教えて下さっているのです。

信仰をもつ生涯変わらんのが、道の子の心定めということであります。

 
 
 


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