心の話【S先生の日記】


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131 心の定規2


人間は心の中に色や物差しを持っています。
その色や物差しは見ることも触れることも出来ないものであります。
そしてその色や物差しは一名一人皆違った物差しや色を持って居り、
一つとして同じものはありません。

心の定規を知っている人、知らずにいる人と皆それぞれであります。
例えばあの人には話し憎い、付き合い憎いと思う心は、自分の色や物差しに
よって計ったものであり、あの人はスケールが大きい、あの人は教養がない
等と思うのは自分の心の物差しによって押し計っているのであります。

これが自分の心の色や物差しであり、更に人間はいつでも自分が正しく
自己中心の心を持っているのであります。

自分ばかりでなく、相手の人もこの様な心を持っているのですから、
話し合いもなかなか難しいのであります。

扨、その色や定規と言うのはどうして出来るのかと申しますと、前世因縁も
ありますが人間生まれてから今日迄の道中に於て、学んだこと体で覚えた経験体験、
知恵等すべてを混ぜ合わせて色や物差し又、自我心が出来て来るのであります。

これが心の色や定規であります。神の理の治まった定規なら良いのですが、
自分の色や定規では間違うことが多いものです。

例えば神の真実の心を見ても聞いても、色や物差しで計りますと、
真実が真実として正しく理解されないのです。
丁度プリズムを通る光線の様に色や物差しで見たり聞いたりしていたのでは、
屈折してしまいます。

人間は早くこのことに気付くことが大切です。
親神様は素直な心を望んでおられます。素直とは心の定規や自我心が強いうちは
素直とは言えません。心を無にして常に聞かせて頂こうと真剣に思う人ほど
成神が早いものです。

自分の色や物差しで見たり、聞いたりしているうちは真実も素直には入りません。
心の定規は道理であり、神の心でなければなりません。
神の心の中には
俺が我がの我の心は微塵もなく、常に公平であり、慈悲であり、
愛の心であります。

ですから注意をしてくださる人が先生と思える心になれたら、
成神してきた証拠です。

 

 132 一隅を照らす1
 
「一隅を照らす」これは比叡山延暦寺を聞かれた、伝教大師最澄の残された
言葉だそうです。

最澄がどう言う心で残されたのか、本人でない限り分かりませんが、
私は初めなんのことか分かりませんでした。

出張から帰って三日目に突然「一隅を照らす」という言葉が甦って来ました。
それは人間の真心であり善意であろう・・・と本当の意味はもっと深いものが
あるかも知れませんが・・・人間は誰でも神の子どもであり、仏教で言えば
仏の子供であると言うことになります。

神や仏の子供である人間が、親である神や仏の心を持たない者はいない筈である。
神や仏の心とは人間の真心のことであると気付いたのです。

人間はお互い同志共に心が汚れている為、相手の本質を見るどころか、
現象にばかり心をとらわれてしまい本質を見失っている。
しかし人の真心や善意の行いは、その人の周囲を明るく照らすものです。

人間の心の汚れは人の真心や善意の行いが素直に心に入らないのです。
丁度プリズムの様、光を屈折してしまう様に人の善意や真心の行いが
埃や因縁の為に邪魔されて自分の心の中にストレートに入ってこないのです。

しかし善意や真心からの行為は何時か必ず人の心に灯をつけるものです。

例えばお年寄りに席を譲ってあげることは常識ですが、それを行う事によって
相手の人の心を暖かくするものです。
人の真心は全世界を照らすものである。しかし人間同士は心の汚れがあるから、
その光を光として素直に受け取ることが出来ないが、その一隅を照らす
小さな善意や真心の輪が、やがて世界をも照らす大きな光になるのであるから、
うまずたゆまず善意の行いを続けて欲しいと言っているのではないかと思います。


 133 一隅を照らす2
 
先日、比叡山延暦寺を訪ねました。
日本仏教の発祥地と言われるだけあって、俗世間と隔たった静寂の地でした。

根本中堂に入った時「一隅を照らす」と書いた屏風のようなものがありました。
伝教太師最澄が残された言葉だそうです。

その時はその侭帰ってきました。三日後の昨日、その言葉が突然甦って来ました。

「一隅を照らす」それは人の善意であり真心の行いの事であろう。
伝教太師はもっと深い悟りの言葉として残されたのかもしれません。

私はこう思います。人は皆、神の子であり仏の子であると言われています。
神や仏の子である人間が、親である神の心や仏の心を持たぬ筈はない。

それは人間の善意であり良心であり真心なのであります。

その人の真心や善意の行いは、その人の周囲を少しでも明るく照らすことが出来る。
この真心の輪が二つ三つとだんだん数が増して、大きな一つの輪ができた時が
仏教でいう極楽ぐらしであり、本教の陽気ぐらしとなる筈です。

千里の道も一歩から、と言う様に一つの善意、一つの真心のつながりが
世界の光となるのです。

人間同士お互いに心が汚れていますから、人の真心や善意はなかなか
入り憎いものです。その邪魔をするのが因縁や埃なのです。

しかし善意の行いや真心は何時かは必ず相手に通ずるものなのです。
それは神の心であるからです。どんな強い因縁でも神の心には適わないのです。

一隅を照らす、一筋の善意の光はやがて大きな光の輪となるのであるから、
人間常に真心を持って行って下さい。と教えられている様に思います。


 134 心の立替

 おみちの中で、良く心の立替えと言うことが言われます。
その心の立替えとはどう言うことなのか考えてみますと、
簡単に言えば心の方向を変えることであります。

心とは思うとか思案する。これが心の作用です。
つまり思案の方向を変えることであります。

しかし、そう簡単に心の方向転換は出来ません。それは自分自身の癖性分や、
使い易い心だからです。

理と言う神の心に照らし合わせてみて、自分の心の方向が間違っていたなら、
神の心の方に自分の心を向き変えていくことであります。

例えば病気とは気が病む、つまり心が病む、その影が身体に現象として現れて来て
始めて人は病気がわかってくることが多いのです。

その元は人間が神の心(道理)を思い違いしている、その積み重ねが
身上となるのです。

鼻の病の中に鼻たけと言うのがあります。
この病の心使いの元は、自分がいつも正しく、自分の言っている事、
行った事をを鼻にかけて自慢する。この心が鼻たけとして現れて来るのです。
これはこの人の癖性分なのです。こう言う人は心が高い証拠ですから
低い心に立替えねばこの病を治すことは出来ません。
低い心とはどんな人にも合わすことの出来る人であり素直にならねばならないのです。

人の姿ばかり見えるうちは、心の立替えが出来たとは言えません。
人の振り見て我振り直せと言う様に、人の長所が見える様になれば
心が低く立替ってきた証拠です。
そうなると自然と鼻の病も良くなります。これが心の立替えが出来たと言うことです。

しかし癖性分は因縁です(その人の持って生まれた)から、なかなかすぐにとは
いきません。自分の心に常に言い聞かせ乍ら一つ一つ努力して行くことです。

一度にパッと心が変わることはとても難しいことなのです。
それだけ因縁が深いし埃心があると言うことです。
言葉で言う心の立替えは簡単ですが、実際に実行するとなかなか容易ではありません。
しかしそれを心に言い聞かせながらの努力以外にはありません。

実行することに依って心がだんだん覚えてくるのですから、実行が大切なのです。
思っただけでは心の立替えは不可能なことと思います。



 135 心の段階

昭和8618日、伊邪那岐、伊邪那美之命二尊は、この五十二段を早く降ろう、
早く降ろ
うと申されて、根株甘露台様に天降られました。

この五十二段とは、心の浄化度の段階であ
り、魂の段階でもあります。
一番下の段階は普通の人の段階であり、私たちは天より甘露
水を戴いた入込社であります。

心の段階が一段上がりますと、ものの道理が良く見える様
になります。

更にもう一段上る為には、それを一つ一つ実行していく以外にありません。

それは心が開けた段階であり、ものの道理がよく見えても実行しない限り、
心がそれを理
解できないからです。

世の中に体験に勝る宝はなしという諺があります。
それは頭で理解
していても忘れてしまう。それを実行してみて
始めて身体を通して心が知ることが出来る
からです。

体験した事は普段忘れていても、その時が来れば心が甦って来て、
思い出せる
のです。
頭で憶えた事はなかなか思い出せません。ですから体験ほど尊いものはないので
す。

心が開けて物の道理が良く見える様になったら、心の段階が一段上ったのです。
更にそ
れを実行することに依って、さらにもう一段上れる筈です。


 136 尊い天の宝
 
甘露水を戴くという事は、親神様と人間の親子縁組をすることであります。

甘露水は親神様の大御心であり、それは人間の心に浸みついた埃や因縁を払い、
人間の陽気ぐらしの為の人間心や、魂の浄化をして下さる思惑が籠められているので
あります。

従って、人間の方にとっては、甘露水を戴くだけの心の準備が必要なのであります。
その為に初お席、別お席とだんだんの席を運んで頂いて、神の理を学んで
いただいたのであります。

親神様は、人間子供達に依る甘露台世界の建設を、急き込まれているのであります。
甘露台世界こそ、極楽世界であり、人類の長く久しく待ち望んだ平和世界なのであります。

その甘露台世界建設には沢山の用木が必要です。皆様はこれから甘露水を戴いて、
立派な用木に育って頂かねばなりません。

親神様はおさしずの中に「何も分からん者は、授けやと言うてもそんな者に渡しても、
何にも分かりゃせんで、なんにもならん。」と仰せられております。

成神して行くのは皆さん一人一人の心の使い方一つであります。
その為には心を開かねばなりません。
もうこれで良いと思ったり、或いは自分だけ満足して人を泣かせているようでは
成神は出来ません。

成神すると言うことは、姿形は同じ人間であっても心が神心になることであります。

皆さんは今そのスタート台に立ったところなのです。

人間は一生が修業だと言われますが、修業と言っても山に籠ったり、滝に打たれたり、
寒水を被ったりするものではありません。

心を磨くのが修業なのであります。

すべての人や物や金が自分の心を磨く材料なのです。

その心一つの使い方によって、善にもなれば悪にもなってしまうのであります。

心が硬い、自我心の強い人は余程痛い思いをしなければ気がつきません。

親神様は素直が望みと申されます。素直な人はストレートに真心に入る人の事です。

自我心の強い人は自分が正しいと思っておりますから、人の話がストレートに入らず
反撥してしまうのです。
この自我心を捨てて真心を磨き出すのが修業です。

又「人は師なり」とも申します。
それはどんな人でも生まれてから今日迄、生きてきた道中はその人にとって
かけがえのない事実であり、真実なのであります。

その真実を聞かせて頂き、それを自分の将来に役立つようにすれば良いのです。

だから人は師なのです。

心を磨き、用木として成神する為には、先ず自分を中心にして考える事から、
常に相手の立場に立って考えることであります。

親神様のお言葉の中に

「俺が我がの我を捨てよ、そこに理が照る」

と申されております様に、自分の思っている様に相手も思ってくれれば
問題がないのですが、そうでないから問題なのであります。

相手の心を変えようとしてもそれが真実であり、それを相手の人が納得しない限り
変えることは出来ないのです。

それより自分の方の心を変える方が早く、又相手を思いやる心こそ神の心なのです、

どんなに長い間信仰をもっていても、自分中心で常に自分が正しいと思っている間は
成神出来ません。

人間は人と人との間で、成神していくのです。

一人では成神出来ないのであり、山の仙人より里の仙人になる方が
難しいと言われるのはここにあるのです。

人間はどんな人でも癖のない人はありません。
なくて七癖、あって四十八癖と申します様に一人一人の皆癖性分も違うのです。

その人々の間で心を磨いていくのが修業です。


 
 
 
 
 
 


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