心の話【S先生の日記】


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121 願いづとめ


おみちの中に大切な、おたすけの方法の一つに願いづとめ
という方法があります。
願いづとめも1人で行うものと、多勢の人々で行う場合があります。
1人で願う場合はその人の真心に依って効能の理があります。

これはお授けの効能の理と同じであり、願う真実の度合いに依って
異なって来るのであります。
つまり相手の身上や事情を願いづとめする本人がどれ丈深く相手の心の
痛みや悩みを察するかによって異なると言うことであります。

従って願いづとめは多ければ多い程効能の理は鮮やかとなります。
しかし、ここで最も大切な事は多勢の人の心が一手一つに纏まることであります。
従って、全員の人が誰の為どんな状態なのか詳しく理解して、人を助けさせて
頂こう、明日は我が身ともわからないと言う心で、全員一手一つになって願う事が
大切なのです。

間は皆我が身が可愛いものです。人の難儀を見ても自分と関係ないと
見過ごしがちであります。
ですから相手の事をどんな病で、どんな状況であるか
出来る丈詳しく知ることが大切なのであります。

相手のことを深く知れば知る程、自分自身の心の中にいたわりの心が
湧いてくるものです。
そのいたわる心の度合いに依って願う心も一人一人皆異なるのであります。
その一人一人違う真心の味が集まれば集まる程、効能の理も鮮やかに
なると言うことであります。

一手一つというのは簡単ですが、行うのは大変難しいのです。

昔から十人寄れば気は十色と言います。
この心を一つに纏めるのには、全員が目的意識をしっかり持つことが大切なのです。
誰の為に、どんな状況かも分からずに、只理振りしても神に通ずる心の誠が
なければなりません。
一手一つの心とは、その場にいる人全員の心が一つの目的に向かって一つに
なることであります。
これでこそ鮮やかな御守護が頂けるのであります

 122 鳴り物の理
 
おうかんみちには、儀式の中に欠かすことの出来ない、九つの鳴り物、
拍子木、太鼓、チャンポン、釣り鐘、琴、三味線、胡弓、笛、つづみがあります。

この九と言う理は種の理でもあります。種を蒔く処は人間の心の中に蒔くのです。
ですから鳴物人象はそれぞれの鳴物の理をしっかり心に治めて、そして真に合せる
心を持って陽気につとめることが大切なのであります。

また九は数字の極数です。数字は0〜9迄で九はその一番大きな数です。
九に一を加えると十つまり十分満足なのです。
その加える一はその人その人の心の味なのです。

親神様は九を台にしてを諭し下されておりますが、神は人間に対し陽気ぐらし
のためにこの上なき御守護(おはたらき)下されていると言うことなんであり、
その九に加える一つの心が感謝の心なら十分満足の理となり、不足の心なら
九が八、七、六と言う様に心がどんどん貧しくなってしまいます。

ですから鳴物人象は、それぞれの鳴物の理をしっかりと胸に治めてから
親神様のご守護に感謝し、真に合わせる心を持って陽気につとめることが
最も大切なのであります。

次に一つ一つの鳴物の理を解説します。

●拍子木のり理()


拍子木は堅い木質ほど高い音色がします。その堅い木を用いるのは、
真として他の鳴物につりこまれないしっかりした心を養いなさい
と言う理であります。そして真の人は二つ一つが天の理ですから
他の鳴物の人のを思いやる心が大切です。
九つの鳴物をつとめる人の、心を一つにして陽気につとめることが大切です。
そのまとめが真です。
真の人が自分中心の心でつとめたならば、バラバラになってしまうのです。
他の人の準備や心を思いやりしっかりとした心でつとめたならば
神の理はカチッカチッと成ってくる理。

●太鼓の理


太鼓は勇みの理であります。叩くとドンドンと音がします。
この理はどんどんと勇む、どんどんと仕込んで頂く、
どんどんと働かせて頂くと言う様に、勇みの理を表しています。


●チャンポンの理
信条第三条の精神、言語、動作の理が治まれば、成神の理であります。
その理を治めてつとめたならば、神はその理をチャンと受取り、
ポンと結果を返す理によってチャンポンと言う。


●つり鐘の理

人間が神に受取って頂けるものは、真心一つであります。
何事にも真心でつとめるなら天の理はチャンチャンと成って来る理。



 123 心の定規
 
人間は誰でも心の中に、色や定規を持っているのです。
この色メガネや定規は目に見ることは出来ませんが、自分自身
気がついている人、気がつかずに使っている人と色々です。
して人間は常にこの色メガネや心の定規を使って、人の話しや見たり、
聞いたりしています。
その結果に於て、あの人は素晴らしい人だ、あの人は頭が悪い、
どこか狂っている等と言う様に自分の定規で測っているのです。

ではこの色メガネや定規とは何かと申しますと、それぞれ個人個人の
経験や智恵、学問等がその定規となっている様であります。

そして人間は、何時でも自分が正しいと思っているのです。
その為に口論になったり、建前だけ合わせても本音が納得しないもの
ですから陰口を言ってしまうのです。

すべて自己中心の心が元になっているのです。
信仰者にとってこの心の定規程、邪魔になるものはありません。

例え真実のことであっても、自分の色で見ると赤や黄色と言う様に
色がついてしまいます。
裏を返せばそれだけ心が汚れているのであり、また定規にしても必ずしも
天理に適っているとは限らないのです。

この心の定規は神の心でなければならないのです。
神の心は公平であり、慈悲であり、愛であり、すべて心の中には、
俺が我がと言う自分中心の心がないのであります。

常に相手の人やすべての人の心を思いやる心が神の心です、自分の心の定規を
捨てて真心を磨き出すのが信仰です。


 124 家計簿
 
世の中には色々な家庭があります。明るい家庭、暖かい家庭、
また喧嘩ばかりの暗い家庭
等様々です。

しかしどんな家庭であっても、家計簿をつけるつけないは別にして、
知らない人
はないと思います。
勿論家計簿はその家の一ケ月の収入支出を記帳する、その帳面のこと
であります。

我家では女房がつけていないようですが、どうして家計簿が大切なのかと申
しますと、
勿論統計を取ると言う意味も大なるものでありますが、最も大切な事は夫婦の
心を
一つにするのになくてはならない大切なことなのであります。

勿論他に方法があれば
別です。神様の目からすれば男は月々の働きの理ですから、
収入の部の担当、女の人は日
々の働きの理ですから、その収入を30日に割って
1ヶ月やりくりをする。これが夫婦の基
本です。

特に金銭は大切なつなぎの理でありますから、貴方お金を取る人、私使う人であ
っては
家庭はうまくいきません。
人は真実でなければいけません。
そして夫婦の心が常に
一つ心にならなければ明るい家庭、暖かい家庭と
言う訳にはいきません。

人間は誰でもお
金の有り難さを良く知っています。
嘘やごまかしは必ずどこかでボロが出てしまいます。

金銭の収支をつけて共に一つ心になって、お互いが納得し合って日々生活することが
望まし
いのであります。
そのための一つの手段が家計簿なのであります。

 125 心
 
お道の中で良く、心造り、心構えと言う言葉が使われますが、
正しい言葉として使われているのか疑問です。
何故なら、心は神が造られたものでありますから、造るのではなく、
くといった方が適切な言葉と思います。

人間の真心とは、真の心と書きます様に、人間の心の中に真心が
閉じ込められているのです。その真心を取り囲んで、人間心と言う八つの埃心や
因縁があるのです。

人はその埃心や因縁が、先に芽生える為に悪いことをしてしまうのであります。
しかし神の子供であるから、どんな人でも真心に触れさえすれば、自分自身
良心の呵責に耐えかねて涙を流すのです。
これこそ真心のある証拠です。

扨、その真心こそ神が人間を創造した時の心です。
その真心とは思いやりの心、いたわりの心、潤いの心、慈悲の心、
愛や公平と言う神の心なのです。
ですから、真心を信仰に依って磨き出すのが正しいのです。

真心の周囲についている因縁や埃心を磨き落として真心のみの心になる迄
磨くことが人間生涯の修業なのであります。それには素直に見たり聞いたり
すれば一番良いのですが心が汚れていると素直の意味は理解していても
実際には素直になれません

先ず心を開いて人を喜ぶことを実行していくことです。
人の喜びが自分の喜びとなれる様になったら、それだけ心が磨かれ始めたのです。
心は磨くものです


 126 貸しもの借りものの理
 
人間の本体というのは、心と魂という生命力であり、
この五体は心と魂の入れものであります。

神は人間に「心一つ我理」として下されたのであります。
従って人間は神に依って生かさせて頂いているのであり、
心以外はすべて神よりのお借りしているのであります。


人間の体もこの世の有りとあらゆるもの、すべて人間は神よりお借りして
結構に使わせて頂いているのであります。
それが証拠に、人間は生まれた時が裸で出直りした時も、どんなに沢山の
物や金を持っていても、皆この世に置いていくのであります。

又この世のすべての物も、人間が陽気ぐらしをする為に貸し与えて下された
ものでありまして、この世は理詰めの世界と言われます様に、
何一つとして無駄なく神のお働きに依って生かされているのです。

雑草の一本一本にも生命があり、人間の出した炭酸ガスを酸素に変えて
いるのであります

しかし人間は勝手なもので、自分中心ですから、畑の草や庭の草を目の仇として
取ってしまいます。
草一本取るにも神に感謝して、草取り草刈りをする人が何人居るでしょうか、
神様、草を取らせて頂きます。今迄この草も人間の為に一生懸命働いて下さいました。

今度はこの田に稲を作らせて頂き、その美味しいお米に依って大勢の人々の
食生活を豊かにさせて頂きます。
今度はこの草が肥料となってください。と感謝と人の為に願う心さえ忘れなければ
方位方向の悪いとか悪い日など一日もないのです。

すべて使わせて頂く人の心一つです。

 127 子宝
 
子供は天からの授かりものであり、俗に子宝ともいいます。
何故に天よりの授かりものであり、子宝と言うのか考えてみたいと思います。

理の上から見ると、この世は二つ一つが天の理と言う神の御心に依って
成り立っているのであります。

二つ一つが天の理と申しますのは、相反するものの調和で出来ているのであります。
一つは理、一つは現場の理、この二つが一つになって、子宝が授かるのであります。

子宝と申しますのは神が人間に対する御心の中には、年限続くのが神の機械であると、
おさしずにある様に、人間が子々孫々に至る迄、栄えて行くのが神の御心であります。
その為には子供がなければ子々孫々と言う訳には参りません。
その家系は絶えてしまいます。ですから子供は子宝と言うのです。

また、授かりものと申しますのは、現場の理のみでも子宝は授かることは出来ません。
夫婦の前生、今生の心使いの善し悪しと、夫婦の心が親心にならねば子宝を授かる
ことは出来ないのであります。

例えば子沢山と言うのは、前生今生の夫婦の因縁と心遣いに依るものです。
子供はもう沢山と思っていても生ませられる人、又暴漢に襲われて子供が出来てしまう、
これもその女の人の心遣いと因縁に依るものであります。
すべて心で蒔いた種(前生今生を問わず)であります。

親は生れ来る子供が健康に生まれて来る様に祈ります。
しかし、その時だけ祈っても苦しい時の神頼みでは願い通りと言う訳には参りません。
常日頃の心遣いが最も大切なのであります。

親が子となり子が親となるとの、おさしずの通り、子供は自分の前生の親かも知れません。
大切に育てて頂きましょう。


 128 勇む心と慢心
 
人間の心と言うものは、とかくままならないものです。
昨日は勇んでいたのに朝目が覚めて雨降りだと思った瞬間、心がいずんでしまいます。
天候は自然であり自分の思いのままにならない筈なのに、全く人間心は勝手なものです。

自分の色や物差しに適えば、喜んだりはしゃいだり、適わなければ怒ったり、
悲しんだり同じ一人の人間なのに、つくづく周囲の方はどうなのかと思います。

そこで人間にとって大切な事は、常に目標を持って歩むことだと思います。
一つの目標を持つと心が勇みます。始めは小さな目標を、そして達成の喜びを
かみしめて段々大きな目標をしっかりと立てることであります。

一つの目標を持つことに依って心が勇ます。しかし一つの目標が達成された時には
慢心が越ってしまいます。この慢心は怖いものです。

これで良いと思った時は進歩が止まってしまいます。
人間は神の子ですから常に進歩しなければなりません。その点慢心は後退なのです。

これで良いと思った時が慢心の始まりなのです。人間は皆神の子供でありますから
前え前えと歩まねばならないのです。
今日よりも明日、明日よりも明後日と言う様に、日に日に休むことなく前進しなければ
なりません。これが神の心に適う心です。心を使えば使う程豊かな心になります。


 129 因縁因果
 
おみちの中でよく因縁と言うことが言われますが、
因縁とは一体どんなものなのかと申しますと、人間の目には見えない、
自分自身の心で蒔いた種との繋がりと、その芽生えのことであります。

例えば畑に大根の種を蒔く、これが因であり種が土の中にあるうちは
人間は目に見ることは出来ません。

しかし種は正直です。大地の温みと水と空気の神の御守護に依って段々と
膨らんで来ます。これが縁と言うことであります。

その種を蒔いたことを忘れていても、ちゃんと時期が来れば大根の芽を
出します。これが果の芽生えでだんだんと成長して食べられる様になるのです。

従って因とは種であり原因です。縁とはその繋がりであり、果とは大根であり
結果と言うことであります。これが因縁因果ということであります。

例えば生まれながらにしても不具者の場合にしても、その両親にしても
大変なことです。
しかしそのような子供を生涯背負って通らねばならぬ両親の心で蒔いた種と、
又子供の前生に蒔いた種が共に芽生えたからなのであります。
親神は因縁寄せての守護と教えて下さって居ります様に、
子供の因縁と親の因縁と心遣いに依って芽生えるのです。

大切なことはこの両親の現在の心遣いです。
不足で通るなら生涯泣き乍ら通らねばなりません。
しかし正しい信仰を持つことが出来れば、その子供もどれだけ
変わるか分かりません。因縁因果がすべて心一つです。


130 身上事情はみちの華


おみちの中の言葉に、身上事情はみちの華という言葉があります。

身上と申しますのは病
気や肉体の痛み等のことであり、
事情とは精神的苦悩を事情と言います。

人間にとって病
んだり、苦しんだり、悩むことほど辛いことはありません。
親神様は人間を苦しめたり、
いためたりはしません。

神は人間の幸福の為にギブアンドギブ、つまり与えるだけで
何の
代償も求めてはいないのであります。

それではどうして身上事情が起こって人間が苦しま
ねばならないのかと申しますと、
それは人間の心が神の心と思い違いが身上事情の種なの
です。

人間の本体と言うのは魂という生命力と心であり、この肉体と言うのは
心と魂の容
れものであります。
その本体である心が思い違いをするから、その種が芽生えて来ると、
の変化が身体に現れて来る、これが病気なのであります。

つまり病気とは心の影の現われ
が肉体に現れてくるのであります。
例えば飲む事食べる事に不足不平ばかり言って通りま
すと、
食べたくても食べられない病、食道ガンや胃を患う病気となるのです。

これは自分
を中心にして考えて、甘過ぎる、辛過ぎる、酸っぱいしょっぱい、
堅すぎると言う不足心
の積み重ねが芽生えて来たのであります。

人間は心一つが我がの理でありまして、心以外
のすべてのものは
神からの借りものなのであります。

衣、食、住、皆神からの借りもので
あり、肉体も借りものなのであります。
すべてのものをお借りして生きているのでなく、
生かさせて頂いている人間が、
この事が分からず自分を中心にして考えて心を貧しくして
しまう。
その心の貧しさが病の元となっているのであります。

ではどうして病気で苦しむ
、もめ事や争い事で悩む、身上や事情がみちの華なのかと
申しますと、神は身上、事情を
通してその人その人の心得違いを諭しているのであり、
人間として生かしてやろう、心の
立替をさせてやろうという慈悲心なのであります。

人間にとっては辛いことであっても、
その苦しみ悩みは助けの台となるのであり、
心の立替、自分自身を知る絶好の機会なので
あります。

この身上や事情を通して神の心と、自分の心の思い違いを悟り、心を立替えて

人の為に働かせて頂こう、世の為に奉仕させて頂こうと、自分中心の心から
神に適う心
に転換出来て、それが行動として現れて来たら、もう身上、事情は
解決されたも同じです


人間貸しもの、借りものの教理が納まったら、神に対し感謝と懺悔しかありません。
んな辛い、苦しい道中であっても感謝して通れる筈であります。
身上、事情は神のお手引
きであります。
ですから身上、事情は道の華と言うのであります。



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