心の話【S先生の日記】


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111 死と墓


人間の本体は目に見ることのできない心と魂が本体で
肉体というのは、その心と魂の容れ物であります。

人間の死とは【心の魂】が肉体から分離して肉体の機能が停止した時
死体となるのです。

おみちでは出直りと言いますが、出直りとは古い着物を脱ぎ捨てて
新しい着物を着る様なものと、おさしずの中に仰せられて居ります。
従って【心と魂】が肉体から分離して、又新しい肉体を借りて
【心と魂】が甦って来ると言うことです。

その死体には何の理もありません。
もしあるとすれば残された遺族の思いや友人、知人の思いがあるだけであります。

扨本題の墓地についてでありますが、日本では法律や宗教で又先祖からの
しきたり等で色々問題がありますが、死体は空ですから何の理もありません。

残された遺族の人が、先祖あっての自分達が今日こうして生かさせて頂いている
ことを忘れない為に形を通してその心を教えているだけなのであります。
祥月命日や盆、彼岸に墓参りする風習も先祖ありての今日を忘れない為に、
人間の情や宗教上のしきたり等からすることなのであります。

大切なことは自分が今日こうして元気に暮らさせて頂けるのは
先祖があっての今日である事を忘れないことであります。
みちの人は亡き人を思い出した時、いつでもその人にかけた迷惑や霊の慰め
又魂の浄化をを願って名号奉唱をすることです。

 

 112 話し方イロハ

 理を取接ぎさせて頂くということは、神の心を取接ぐと言うことであります。
ヤ、イ、ユ、エ、ヨの心で取接ぎをさせて頂くと良いと思います。

ヤ. 優しい心(思いやりの心で)で優しい言葉で誰にでもわかる様に
道理をとくことであります。

イ. 生き生きと体験を通して心で悟った理を話す。
その言葉には説得力があります。

ユ. ユーモアも忘れずに。頭でコピーした理は人の心を打つものが少ない。
時にはユーモアをまじえて。

エ. 笑顔で話すことを忘れるな。


ヨ. 話をよく纏めて、ようりょうよく話をしよう。

話す言葉とは人と人の心をつなぐ道具であります。
その道具を正しい道具として使わない限り、凶器になったり
刃物になったり致します。それでは心と心をつなぐ道具にはなりません。

言葉は自分の真実の心を人に伝える為の道具です。真実の中にも嘘も方便と
言うことがありますが、方便は方便であって、理には適いません。
あくまでも真実の心を伝えるのが言葉の持つ意味なのです。


 113 電話
 
世はまさに文明の時代であります。テレビ、冷蔵庫、電話のない家庭は
皆無と言っても過
言ではありません。

扨、ここでは電話について話します。
電話は言葉に依って心と心をつ
なぐ道具であります。
自分の意志を相手に伝えたい、緊急な時に用いるものであります


1家庭に11台ずつあれば話は別ですが、大切なことは自分の意思を伝えるための
道具
でありますが、相手の立場を考える思いやりの心が大切なのです。

例えば今お時間を10
なら10分頂けますかと相手の心を思いやることが
先ず大切なことです。
自分中心で相手の
思いやらずに電話をしますと相手が迷惑してしまいます。
自分はすべて用事が済んでもう
寝るだけだからと思って電話をしても
相手も同じとは限りません。

相手が風呂上がりで裸
であったら長電話は迷惑です。風邪を引いてしまいます。
また出勤前の長電話も聞いてい
る方は迷惑千万な話で相手の心を充分に聞く
事が出来ません。それでは意志が充分に伝わ
りませんから、
先ず相手の心や立場を聞くだけの思いやりが必要なのです。

電話はなくて
はならない大切な道具ですから、使うには使うだけの
エチケットが必要です。

1、相手の心や立場を思いやること。

2、自分の意志を伝える為に用件を纏めて要領よく。

3、無用の長電話は禁物です。長電話は電話会社の奉仕になってしまいます。
自分ばかり
中心に電話しても、相手から意志を伝える電話でもある訳ですから、
長電話をしていたら
緊急の間に合いません。
くれぐれも注意して使うことが大切です。

 114 九を台にして
 
親神様は九を台にして諭して下されております。
子数の年限も九が台になっております。
九と申しますのは極数であり一〜九、九は最大の数字であり、
十というのは一と0であります。

つまりこの世の全てのものも人間が陽気ぐらしを見たいさせたいと思う
親神の御心に依り至れり尽せりに御守護して下さっているのであります。

よく世間では、この世は苦の沙婆であるということを耳に致します。
親神様のほうからすると、陽気世界に創られているのであります。

この陽気世界を苦の沙婆と思う人はその人の心が人間心で汚れていて、
自分中心の考え方が強いからであります。
神の心と人間の智恵に依って文明文化が発達し、今や家に居ても世界の動きが
一目でわかるテレビ、ラジオ等あり、本当の陽気世界なのであります。

人間は智恵が発達して、その反面、心がどんどん貧しくなって来ているのです。
昔は扶け合い、共に育つという心の教えも今や地に落ち、自分さえ良ければ、
自分の家庭さえ幸福ならばと人はどうでもと言う様に心が貧しくなって
しまいました。

九は極数のこの上なき理と申しましたが、人間に心一つを与えられた
親神の方から見れば九に心一つ理に適った心遣いであったなら
十分満足の理となるのであります。

心一つが分からず、人間心で見れば不足、不平、不公平と言う様になって
しまうのであります。

この世の全てのものは、親神が人間の陽気ぐらしを見たいと言う心から
貸していただいているのであります。

心一つが我理でありますから、人間は何をするにも使うにも感謝して
通らねばなりません。
心一つで十分満足の世界なのです。人間の幸せも心で満足しない限り、
慾に切りない泥海となってしまいます。


 115 真心とは真の心

 ひょうたんの木甘露台様は私達信徒に
「何事も真心を持って進むべし真心なくば唯の人なり」と教えられました。

真心とは真の心と書きます様に、人間の心の中の芯の心のことであります。
この芯の心こそ神が人間を創造された時の心でありますから、汚れ、
けがれのない綺麗な心であります。

その胸の中には、優しさ、思いやり、親切、公平、慈悲の心と言う
神の心を皆持って生まれてきているのであります。
何故なら人間は皆、神の創造された子供であるからです。
どんな大悪人と言われ、殺人犯であってもこの真心を持って生まれ出ているのです。

人間は八千八度の生まれ替わり死に替わりの更生に依り、その魂を銘々の心遣いの
良し悪しに依って因縁を積んできてしまったのであります。

ですから殺人者、凶悪犯は真心の芽を出さず自分が前生、今生に於いて蒔いた
種に依って、その悪の種が先に芽生えた為に、罪をつくってしまったのであります。

例え凶悪な殺人者であっても、その人の芯の心にこちらの真心が伝わったならば、
その人は良心の呵責に耐えられず涙を流すのです。
これは心と心、真心と真心が通じたからであり、その犯人も真心を持っているのです。

ひょうたんの木様の御遺訓の中の真心のさとしは、信仰の道を歩む人であっても、
その真心と言う人間が創造された時の心、美しく、優しく、汚れなき心と言う
神の心が悟ることが出来なければ、折角尊い甘露水を頂いても、
只普通の人と同じになってしまいますよとの、おさとなのです。
 116 人間
 
人間は人と人の間と書きます。
人と言う字は二本の棒で共に支え合って人と言う字になるのです。

親神様は二つ一つが天の理とお諭し下されて居ります様に、二つ一つとは
相反するものが一つになる事つまり調和が天の理なのであります。
従って男と女の間、調和によって子宝に恵まれるのです。

男は月様の思いに依って月々の働きが本分であり、女は日様の思いに依って
日々の働きが本分です。
男は月々の働きですから、月に一度の月給を取る、

日様のお姿は頭十二の大蛇と言われております様に、
女は十二分の気働きが出来ると言うことなのであります。

つまり月給を30日に割ってやりくりして日々過ごす、この双方の調和に依って
家庭が成り立って行くのであります。

人間は人と言う字が示す様に互いを立て合ってこそ人となるのでありますから、
夫は妻を、妻は夫を立ててその調和が一番良い訳であります。

男が月々の働きが出来るのも妻が日々家庭をしっかり守っているから、
心置きなく仕事が出来るのであります。
また女は男の働きに依って日々の生活が出来るのであります。
これが調和であります。

この様に互いに本文を尽くし合う家庭には良い子宝に恵まれるのであり、
どちらかが強すぎても弱すぎても調和が取れません。
共に立て合い、共に感謝しあって通ることが肝要です。

人間はお互い同士完全ではありません。自分は一人前と思ったら
相手に対し不足が生じます。不足の心が募れば家庭は崩壊してしまいます。
ですから人間は自分自身をよく認識しなければなりません。

自分の足りないところは、自分自身努力して身につけることであります。
ですから常に一日一日を振り返り反省して通ることです。
反省とはその悪しきことは二度と言うまい、すまいと自分の心に言い聞かせ
努力して行くことが大切なのです。

口で反省しても心が納得しない限り反省は出来ません。
それが人間の業と言うものです。
人に勝つより自分に勝てと歌にありますが、自分に勝つとは業つまり
因縁に自分の真心が勝つと言うことなのであります。

これが成神への道であります。
成神とは姿形は人間であっても心が神になることです。


 117 日のきしん
 
人間は神に対し、感謝の心と懺悔の心しかありません。
何故なら心一つが自分のものであり、他の全てのもの一切人間が神より
お借りして結構に使わせて頂いているからであります。

ですから感謝の心で使わせて頂きますというのが正しい訳ですが、
この理が分かっていても感謝の心を忘れエラーしてしまいます。

そのエラーを一つ一つ懺悔して通らねばならないのであります。
しかし、人間は我儘で当り前と思ってしまい、感謝の心を忘れ勝です。
ですから懺悔が必要なのです。

扨その感謝の心を表すのに、おみちでは日のきしんと言うことがあります。

ひのきしんとは日の寄進でありまして、日々結構に活らさせて頂だいている
感謝の心を形に表し神に奉仕をすることであります。

みかぐらうた十一下り目4ツ 慾を忘れて日のきしん。
これが第一肥となる。と仰せられております。

日のきしんで大切なことは感謝の心でつとめさせて頂だくことであります。
人がやるから仕方なくまた慾の心で行うのは神の受取り出来んのであります。

みかぐらうた九下り目4ツ慾があるならやめてくれ、
神の受取出来んからと仰せられております。

又神との交換条件で行うのも日のきしんにはなりません。
日の寄進で大切なのは感謝の心以外ありません。感謝の心も人に依って様々です。

例えば親神様によって身上、事情が解決させて頂いた、お陰様で縁談が決まった、
お陰様で入学試験に合格させて頂いた、お陰様で、あるいは一ヶ月家族が健康で
活からさせて頂いた、お陰様でと言う人がそれぞれ感謝の仕方は違っていても、
その心で神前奉仕をさせて頂く、この心の理が尊いのであります。

感謝の心は更に感謝の心を育てるのであります。その心の味によって、
身上、事情も解決してくるのであり、又神前奉仕で流す一粒一粒の汗が因縁を
切っていくのです。
ですから日の寄進は尊いのであります。それは感謝の心が元であるからです。


 118 お供えのお水の理

 皆さんの中には教会にお供えさせて頂くお水を頂いて、
身上が治まったと言う経験がありませんか。
またそんな話を聞いたことがありませんか。

どうしてその水を飲んで身上が治まるのかお考えになったことありますか?
親神様は「御供えが効くやない心の誠が効くのやで」と仰せられております。

教会にお供えさせて頂くお水には教会長の真心が籠っているからです。
教会長さんは今日も一日信徒の皆さんが大難なものは小難に、小難のものは無難に
お連れ通り頂きたいとの真心を込めてお供えするのです。

またそのお水を頂く人の心が感謝の心で頂きますと、その真心に対して親神様は
その人その人の心の味によって八埃の心の埃を払って下さるのであります。

親神様は二つ一つが天の理とお知らせ下されております様に、教会長さんの真心と
頂く人の感謝の心によって効能の理が鮮やかとなるのです。
お水にしてもお供物にしても、特別なものを供えているのではなく、
その水やお供えを供える人の心の味と頂く人の心の味に依って、効能の理も
一名一人皆違うのであります。

心貧しく感謝の心でなく頂いたり、不足の理でいただくなら只の水、
只の駄菓子です。


 119 甘露水とはなにか
 
甘露水は別名、天の宝、天のぢきもつ、寿命薬、神種子、
又、月日教祖の御分霊とも申します。

そして甘露水は無味、無形、無臭であるが最も尊いのであると言われております。

では甘露水とは一体何かと申しますと甘露水とは「神の心」なのであります。
何故天の宝というのか、人間世界にないものであり人間にとっても最も尊い
天からの宝ものであり、人間が生き神になる為の宝ものであるからです。

何故天のぢきもつと言うのか、神の心は人間の心にとって最も大切な生きる方向を
決めるそして陽気に活らさせて頂く為の心の栄養源であるからです。

何故寿命薬と言うのか、人間の心の中に神の心が芽生えたなら、その心の神の心を
一つ一つ実行していくことに依って人間の寿命が伸びるからであります。

何故神種子と言うのか、人間が生きながらにして神になる、
親が神ならこも神にと言うのが神の心であり、その生き神になる種子であるから
神種子と言うのであります。

月日教祖の御分霊と言うのは何故か、御分霊とはみたまを分けるから
御分霊と言うのであり、甘露水は月日教祖の心を分けたものであるから
御分霊と言うのです。


120 お授けの理

甘露水を戴いた方は皆入込社といいます。
入込社になるとお授けの理がいただけます。
このお授けは十人十色と言う様に一名一人の効能のり理が皆違うのであります。

何故なら十人寄れば気は十色と申します様に、心の味が違うからであります。

お授けで一番大切なことは願う人の真心なのであります。
身上で苦しんでいる人を見て、その人を助けさせて頂こうと頂う真心で、
相手の痛みを自分がどれだけ深く察することが出来るかによって、その効能も
違うのであります。

相手の心の痛みを深く察すれば察するほど、効能の理は鮮やかとなり、
浅ければその効能の理も浅くなってしまいます。

しかし親神様は入込社に、恥をかかせることは致しません。
何故ならお授けをさせて頂こうと思う心は神心であるからであります。

その真心が人の心を救うのであります。その為には相手の立場を我身や身内や
兄弟に置き換えて、真剣にお授けをさせて頂くことであります。

その真心が天に通じて相手の心を開いて下さるから相手の心が楽になるのです。
相手の心の悩みや痛みを真味になって聞いてあげるだけで相手の方の心は
楽になるのです。

しかし緊急の場合や見ず知らずの人に話しかけても、相手の人が心を開く
訳がありません。ですから「お授け」の理が大切なのであります。

相手の人が死にそうで口がきけなくても入込社の真心によって
「お授け」をさせて頂けば、その効能はちゃんと表れて来るのであります。
どんな時でもどんな人でも
理がわからなくても(自分も相手も)人を助けさて頂こう、
「お授け」させて頂こうと思う心が最も大切なのであります。

その心は神心です。その心の中には「我の心」が少しもない筈であります。
ですから効能のりが表れて来るのです。

神は入込社に恥をかかせることは致しません。どうぞこれを心に置いてどんどんと
「お授け」を取り次いで下さい。人を助けるのは真心です。

教理は人の心を育てるものです。


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