心の話【S先生の日記】


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101 出世の法則


男は天の理、水の理、種の理を持ち、女は地の理、火の理、
苗代の理を持っているのであります。

子供が授かると言うことは、男と女、心と心の調和に依って
子宝が授かるのであります。

女は火の理ですから心が温かくなければなりません。
心が水の様に冷たい心であったら、どんなに良き種を蒔いても
種が氷ついて発芽できません。
また反対に女の温みに男の心が負けてしまいますと、
良き種が出来ないのであります。

この世界が又体温が、水と火の五分五分の調和に依って
成り立っているのと同じ理であります。

男或いは女の子ばかり授かると言うのは、夫婦の心遣いによって、
神が授けているのであります。
子供の方から見ると自分の前生の通り方の良し悪しに依って、
その夫婦の子供として生まれて来るのであります。

因縁寄せての守護とはこの事を申すのであります。
どんなに自分は違うと逆らってみても神は絶対に公平であり、
その人その人の心の使いに依って子供が授かるのであります。

〇〇〇として生まれるのも本人がどんなに逆らってみても
神はその人の前生の通り方を見て、その前生に於いて、人を苦しめたり、
不足したり又言葉に依って人の心を傷つけたりした人生があったから、
その心遣いが形に現れて〇〇〇として今世一代見られて果たしの道中を
通らねばならないのであり、又そのことを不足して通りますと果たしの
道中をもう一代更に悪い果たしの道中となるのであります。

ですから出生の法則とは心と心つまり夫婦の心遣いと子供の魂の因縁に
依って子供が授かるのであります。

いくらあたたかい言葉や行いであっても、神はその人その人の心の味を見て、
その夫婦の心遣いに見合った魂の子供を授かるのでありますから、
親は子供の姿を見て自分の心を反省し悪しき心遣いを捨てて日々感謝の心で
通ることが大切なのであります。

すべて心一つの使い方が元になります。悪い心遣いは悪因縁に、
良い心遣いは良き因縁として子供に恵まれるのであります。

 

 102 感謝の心
 
この世界は神に依って創造され、人間も神に依って創造され、
生かさせて頂いているのであります。

神が人間を創造されたのは人間の陽気ぐらしを見たい、
させたいという思惑で創造されたのであります。

その時人間に心一つの自由の理を与えられました。この世界のすべてのものは、
神が人間の陽気ぐらしにの為に創造され人間に貸し与えているのであります。
そのすべてのものの中から人間の智恵に依って色々と便利なように、道具を創り、
又家や乗り物を創って結構に使わせて頂だいているのであります。

この世の全てのものは、神がその素材を用意してあり、その素材を使って
便利に使わせて頂だいているのであります。

素材なくして人間の創り出したものは一つもありません。
従って人間は神に対し、又人に対しても感謝の心が大切なのであります。

例えば日本人の主食である米にしても、火、水、風は一の神という大地の温み、
水、空気のどれ一つも欠けても植物はおろか、すべての生き物は生きられない
のであります。

その三柱の神の御守護と農家の人々の心と行いで作物が穫れるれるのです。
それを食べさせて頂くのですから、いただきますと言う感謝の心を言葉に出して
食べさせて頂いているのであります。

人間は天地という神の懐住まいと言われますが、人間は懐住まいをさせて頂だく程、
神に対し徳分などないのであります。

空気を例えにとっても人間は酸素を吸って炭酸ガスを吐き出しています。
又、自動車や飛行機からの排気ガスを吐き出すだけで空気を汚すだけ汚しているのです。
その汚れた空気を神は人間が寝ている間にも休むことなく掃除をして下さっているから、
朝目が覚めると清々しい空気となっているのです。

この様に汚すだけ汚しているのが人間であり、神は人間に対し、
何の代償を求めることなく、只人間子供達の陽気ぐらしを見たい、
させたいの心一筋で御守護下さっているのでありますから、人間は神に感謝の心を
持たねばならないのであります。

 103 おうかんみちの信仰
 
 
おうかんみちとは、この世界を創り下された神々の中の元親神である
十天上大神が御降臨になり、この世界の人間を陽気ぐらしをさせたい思惑に依り、
この世の全ての人間に甘露水を授け、人間を生き乍らにして神に創り上げたいと
言う思惑で天降られたのであります。

従って天が下に住む人間はすべての人が通る心の道として神が直々に付けられた
教えの道であります。

おうかんみちを信仰するということは、人間が真の幸福への心のみちを
教えているのでありますから、それにはまず親神の心を聞いて一つ一つ実行して
身につけねばなりません。

親と言う字が示すように、親と言う字は立木を見ると書きます。
人間の親子関係に於ても親はいつでもどこでも子供の安否を気遣っております。

親神は全世界の人間の幸福を願われ人間子供達の成長を見守り続けて下されて
いるのであります。

信仰と言うと感覚的に難しいと思う方がおられますが、決して難しいものではありません。
人間として当り前と思えることに感謝をして通ることです。
後は教えを聞いて成る程、成る程と言うことは神の心でありますから実行していくこと
であります。
人間は神に対し感謝と懺悔しかないのであります。この心が悟れる迄しっかり学んで
実行することが成神への道であります。


 104 足納(たんのう)は小さな水心
 
足納は小さな水心であります。
人間にとって最も大切なことであり、この小さな水心が沢山積もって大河となり、
大海となるのであります。
世界に名のある大きな河であっても、その水源地は水一滴から始まって、
その一滴一滴の集合体が大河となるのであります。

この足納の心もその水一滴の心なのであります。
親神はこの世を九の台にして諭して下さっております。
九に一を加えると十分満足の理となるのであります。
九を十分満足にして通るか、九と九して不足の心で通るかは
各人各人の心の使い方なのであります。

例えば相手の人から嫌がらせをされたとする。
その嫌がらせに対して反抗するのは人間心です。

自分は正しいと思う。又相手を憎む心が反抗の元にあるからであります。

反対に足納とは相手の言う事が気になったり、嫌がらせをされたりした時は
「見る聞く因縁我にあり我になき理は映り来ぬ」と言うお諭を実行するのです。

つまり自分にも嫌がらせをした、又嫌味を言った覚えがあるから言われているんだな、
嫌味や嫌がらせを言われたから、自分の方がこんなに心が傷つくのかと
自分の心を洗い直し、今度ああ言う場合に行き合ったら、自分は嫌味や嫌がらせを
すまいと自分の心に言い聞かせありがとうございます。神様をお教え下さいましてと、
自分の心も相手の心も汚さず濁さず傷つけずに通ることができました。
お陰様でと感謝して通ることが足納の心であります。

この様に日常生活の中で不足に思える事は全て「我」の心であります。
その「我」心を理で補って十分にして流す心が足納の心であります。


 105 信条
 
信条とは私達おうかんみちを歩む信徒が日々生活をしていく上に
心して通らねばならない神との約束事であります。

第一条 三社三棟の親神様を信仰しますおさしずの中に三軒建てて道は
一筋という様に、神の心は人間の陽気ぐらしを見たい、させたいという
心一条であります。
そのために神は人間の幸福に生きる為の教えを解いて下さっているのであります。

従って信仰するということはその神の教えをまず学び、それを実行し、
体験してみて初めてその教えが身につくのであります。

人間の心を神の心に建て替える為に信仰させて頂くのであります。

第二条 我慾慢心を捨て従順な心になります。


我慾とは、自分の心を満足させる為に起こる欲しいと思う心が更に強くなって、
その欲しいと思う物に執着する心が、我慾であり、慢心とは感謝の心がなく、
当り前と思うことを当り前としか受取れずにいて平気でいられる心、
この心は貧しい心であります。

その二つの心を日々捨てて、素直な心で通らせて頂きますと誓うのであります。


第三条 精神、言語、動作の三行を守ります。

精神とは心であります。言語は言葉、動作は行いのことであります。
その精神とは神に適う心遣い、神の心に適う言葉を神の心に適う行いが、正しい心、
正しい言葉、正しい行いを持って日々通らせて頂きますと、神に誓うのであります。


第四条 人を助ける神心をもって世界の平和を祈ります。

人間は、世界一列皆兄弟であり、皆神の子供であります。
人の悩み苦しみを助けて頂こうと言う神の心を持って、日々世界の平和を神に
祈って通らせて頂きますと誓うのであります


第五条 甘露台の用木としてその本分を尽くします。

甘露台様は神の名代であります。私共信徒一同は日々その甘露台様の手足となって
使命を全うさせて頂きますと、お誓いするのであります。


 106 成神
 
成神とおみちではよく申します。
一般的には人に成る成人と書きますが、おみちで言うと
ころの成神とは
どんなことかと申しますと、成る神ですから、神に成ることです。

ではど
れが成神かと申しますと人間は親神と違って姿、形を持っています。
しかし魂という生命
力と心は無形であります。
「大切なことは心一つが我理」つまり心の成神なのであります


姿、形は人間であっても心が神の心になったなら、信条第三条「精神、言語、動作」
心と言葉と行いが神の心に適う言葉を行ないとなれる筈です。

人間が見ても成程と思える
、この三行が神の心であったら
背中から御光がさす筈であります。

これが成神ということ
であります。成神させる為に甘露水を人間に与えるのです。
甘露水を与えなければ人間心
がはびこってお互いが慾の心を満たす為に戦争になり
人類滅亡の危機にあるからでありま
す。

神種子を頂いても今生神の芽の出る人、出ない人、皆それぞれの努力と
因縁によって
違うのです。
しかし心に頂いた甘露の理は生涯末代消えることはありません。

その人の心
が潤いの心になったら、だんだんと悟る力がついて来ます。
お互いに頑張りましょう。

一つ
一つ懺悔とその実行に移すことが大切です。
更に果し道中に入っている場合、因縁が出て
いる場合は、
その理違いのところを神に尋ねて懺悔と実行が最も大切なのであります。

 107 貧
 
おさとしの中「今は貧者のその人は昔長者と思うべし」
と言うお言葉があります。

人間の方から見ると何時の世も貧者は嫌なことだと思います。

人間は物心ついてから今日までの自己の記憶と体験でものを見ることが多く、
又上の方ばかり見て暮らしておりますから、不足の心ばかり湧いてしまいます。
今生は貧しい人であっても、前世は長者であったかもしれないのです。
長者の家に生れた子供は貧しい人の心がなかなか理解出来ません。

生活が貧しい時こそ、心の修養になる事はありません。
生活が貧しいからといって心まで貧しくなってしまいますと、
もっと惨めな生活しか巡ってきません。

財の貧乏より、心の貧乏の方が立ち直りが難しいのであります。

どんな貧しい生活の道中であっても「1日生涯」今日という日は
二度と巡ってこないのであります。
ですから、今日一日を大切に一生懸命真剣に生きて、今日も一日健康で過ごさせて
頂けた事に感謝をして通ることが最も大切な事なのであります。

貧しい時ほど下を見て一歩一歩大地に足を踏ん張って通ることであります。

今の苦労は先の楽しみであり、世の諺にも禍福はあざなえる縄の如しと言います。

人間は一寸先は闇だと良く言いますが、道理や世間の常識がわからない為に、
遂、自分や家庭を中心にして考えてしまいます。
その為に心が道理や常識を踏み外して苦労してしまうのであります。

みちを歩む皆さんはどんなことにも感謝の心を忘れてはなりません。
それは貸しもの借りものの教理に依って、自分達は心一つの使い方が
我がものと説かれているからであります。

他の全てのものは神よりの借り物です。沢山神よりの御守護を頂く為には
神の教え、神の心を実行していくことです。
その為に最も邪魔になるのが「我」の心です。
自己中心にして考える、この心遣いを一つ一つなくして行くことに
努力することであります。

 108 合わせる心の実行
 
合せる心とは水心であり、神の心であります。
私はおみちについて18年目になります。
迄信仰とは頭でするものとばかり思っておりました。
そのため教義を一生懸命学んで来ました。神と自分の距離が随分あったのです。

神の教えと人間の生活と別の世界の様な気がしていました。
ある日突然気が付いてみたら、信仰とは神や仏の教えを自分達の生活の中
生かすことであったのです。それに気が付きませんでした。
ですから言うことと、行ないとの矛盾にも気が付きません。

「我」の心もどう言うことが「我」の心なのか生活の中で省みる心もなかったのです。
その為、信仰をもっても、一つも家の中が変わることなく
また信仰もそう言うものだと思っておりました。

ところが気がついてみたら、信仰とは実に素晴らしいことだったのであります。
又それを実行することの難しさといったら全く難しいものです。
自分の思うことを伝える言葉一つにしても自分の意思が正確に伝わるかと言ったら
相手の人は自分の都合の良い様に解釈してしまうのです。

そこで今一つ一つの教えを実行しています。
「はい」「ありがとう」「させて頂きます」この言葉に心を込めて
使う様努力しています。
このことによって自分の心も豊かになり、また聞いた相手の方もやはり
心が豊かになるのであります。

合わせる心とは「我」の心を捨てることであります。
その心を気のついたことを一つ一つ実行して、それが自分の生活習慣となるまで
実行し身に付いたら、次の事を身につけていく以外に方法はありません。

例えば自分の「我」を出さない為に、今迄と心している小さなことで書きます。


一、テレビのチャンネルは家族が中心で、自分の見たい番組とあった時は、
小さい別のテレビで見る。


二、外食を月一回家族全員で行くのですが、どこへ行こうと我の心を出さない。

三、食事には好き嫌いをしない、あれが食べたいこれが食べたいと言わない。

四、命令的口調で言わないこと等です。

 109 冷え性
 
病というて既になし、心得違いの道が見えるで」と教えて下さっております。

病は心の使い方が違うから、その心が病むから、その影が身体の部分に
映し出されるから病気という現象になって、現われてくるのであります。

さて、そこで神は男は月様の理に依って水の守護の理、
女は日様の理に依ってぬくみの理であります。

人間には冷え症で悩んでいる人がたくさん居ります。
夏であっても、もも引きを履いても冷えて困るということをよく耳に致します。

この冷え症と言う病は女の人に多い様です。医学的には色んな原因があると思いますが、
神のみちの諭しと言いますと、女の冷え症では夫に対する心の冷たさが冷え症になり、
もっと心の冷たい人は不妊症になるのであります。

女の人は心が温かくなければならないのに、男()を尻の下に敷く、
俗に言う嬶天下の人は冷え性で悩まねばなりません

そこは丁度たらいの中に水をいっぱいはって入っているのと同じことです。
一年中こんな状態であったら、冷え症になるのは当たり前であります。

この様に女の人の心が、夫に対して冷た過ぎる理違いが冷え症となるのであります。

又女の不妊症は心が氷の様に冷たいものを持っているのであります。
どんな良い種を蒔いても田地が氷りついていたら、種まで氷らせてしまい、
発芽どころの騒ぎではありません。

心の冷たい人とは「我」の心が強く思いやりの心や相手の心を温める
言葉や又潔癖すぎて相手を許す心が少ないのです。

であっても、ぐーの音も出ない程相手をやっつけてしまう心等、
この様心の強い人が不妊症となり易いのであります。

またごく稀に男の冷え性ということがあります。これは男女夫婦相手の温かい心を
受ける素直な心が不足しているのであります。
夫婦は五分五分の理ですから、共に足りないところを補い合い、助け合いの心で
通るころが大切であります。

110 子どもは耳で育つのでなく、目で育つ

百聞は一見にしかずと言う言葉があります。
何度も何度も説明するより、一度見た方が理解出来ることを言うのだと思います。

これと同じ様に子供は耳で育つやない。目で育つことに気が付きました。

子供は親の言う通りに育つものではなく、親の行っていることを見て
知らず知らずのうちに身に付けてくるものなのです。

勿論素直な子供は聞いて、それを実行して身に付くこともあります。
しかし大方は目で見て真似て育って行くのであります。

親の引いたレールを子供が通ると言われる様に、親の行いに依って、
子供はそのままそのレールの上を走って来るのであります。

子は親の鏡、子供の姿を見て親が反省して通らねばなりません。
子供は正直です。親がいくらうまいことを言っても、行いと言う事の矛盾に

気が付かずにいる、子供は親の姿の通りのことをやってきます。

親がだらしなければ、子供もだらしなく、掃除の嫌いな母親からは、
やはり掃除の嫌いな子に育ってしまいます。

それは親の日々の行いを見ていて、それで良いと思っているからであります。
その子供は他に比較する対象物がないために親の姿、行ない通りに身につけて
しまうのであります。

子供が大きくなって、、世間の色々なものを見て初めて自分の家庭との対象に
なるものが出来て、良し悪しを判断していく力が身につく様になるのであります。

ですから日々お道を通る人は子供の姿を見て嫌だなー、
だらしないなーと思うことがあったら、先ず自分の心をしっかりと見つめて行いを
反省し、共に育たなければなりません。注意してもその通りにならないのです。

共に育つということは自分も反省し、子供にその心を離し話し、
お互いに注意をし合って共に成神出来るものであります。
親だからといって、子どもに押し付けても子供は言うことを聞きません。

大切なことは自分と子どもの心の高さを同じにして、経験の多い親が結論だけ言わずに
順序良く話をして行くことが大切なのであります。
子供は親と比べて体験が少ないのですから、結論だけ言われても理解できません。

小さな子供には尚更です。
自分は分かっていても相手が自分と同じ様に考えてくれるとは限りません。

子供が親の行いを見て育つのですから、日々自分の行いに十分注意して
通りたいと思います。


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